山下和美(漫画家) ・画業40周年、新たな題材に挑む
1980年に漫画家デビュー、父親をモデルに学ぶことが大好きな大学教授を主人公にした「天才柳沢教授の生活」や、自ら数寄屋作りの一戸建てを建てて、それに見合う和の心を持った風流人、数寄者になるために茶道や着付けを習う様を描いた、エッセーコミック「数寄です!」などで知られています。
昨年漫画家生活40周年を迎えるが、あっと言う間でした。 一番上の姉が19歳で少女漫画でデビューしましたが、プロの漫画を読むのが家に沢山あって、読んできたので、書き方は小学校の頃から判っていて鍛えられました。 姉からはぼろくそに言われました。 人に見せるようになったのは横浜に来てからです。 襖一枚一コマと思っていて、ストーリーができました。
小樽から小学校の6年の時に父親の関係で横浜に引っ越してきました。 鎌田でコミックマーケットが年に一回ありそれに出していました。 大学に入って学校の先生になろうか、考えていましたが、1980年、『週刊マーガレット』で出ることになりました。 10代の時にとにかく出そうと思っていました。 投稿の結果は佳作でした。 プロになるつもりはなかったがいつ間にかプロになっていましした。 その時に池田理代子先生に褒めてもらって、その人がいたから今の自分があると思っています。 「絵のうまさが恐ろしい」と言われ、凄くうれしかったです。 立体的に書くことが自然とそうなっていきました。
自分自身を少女になかなか投影できなかった。 何を書きたいかが判らなかったので代表作がなかなかできなかったので苦痛でした。 脳梗塞で出版社の会社で倒れて、救急車で運ばれましたが、よくわからなくて、翌日横浜の総合病院に行って、脳外科に回されて脳梗塞だという事が判り入院となりました。 微妙に対応が遅れたためか、両目とも右側視野欠損という後遺症が今でもあります。 根を詰めてやっていたのでそれがいけなかったようです。 吐き気がして右側の足先から痺れ始めて、机が白くて筆入れを探しても見えなくて見つからなかった。 それで倒れてしまいました。 漫画でやっていこうという覚悟はできました。
20代は必死でやっていました。 大前田りんさんのお手伝いに行って『モーニング』の担当にスカウトされました。 カラフル増刊にイラストを描いて欲しいと言われて、父親を描いたらそれが編集長に物凄くうけて、これをモデルに漫画を描いて欲しいという事で、『天才柳沢教授の生活』を書くことになりました。 父親は一切読んでいませんでした。 第27回(平成15年度)講談社漫画賞一般部門を受賞。
2011年数寄屋作りの建物を建てました。 自分が漫画家として続けるにはどうしたらいいか、気にしていてその時に環境を変えたかった。 いろいろやりましたが、唯一うまくいったのが掛け軸作りで、障子張りなどが得意になりました。 茶道はまだまだです。
尾崎幸雄のゆかり洋館が解体の危機にあったものの反対運動をして、館を維持していこうと思っていますが、保存できるように対策しているところで、クラウドファンディングをいずれ始めようと調整中です。 洋館保存運動に携わるきっけけは、洋館が解体して売りに出されて建売が7軒出来るという事で、倉田さんが3年前にツイートしたら反応が凄くあって、有志が集まって交渉したが金額面で折り合いがつかず、解体のお知らせがあり、同業だが付き合いがなかった協力者、笹生那実・新田たつお夫妻の協力を得て現在に至っています。 漫画を展示したり、カフェとかがあり、皆さんが自由に入れるような場が作れたらいいと思っています。 その経緯を描いた漫画「世田谷イチの洋館の家主になる」を2021年より『グランドジャンプ』にて連載中です。