吉田沙保里(レスリング オリンピック金メダリスト) ・【スポーツ明日への伝言】親子で成し遂げた連続世界一
父 吉田栄勝さんの指導の元、3歳からレスリングを始めた吉田沙保里さんはオリンピック3連覇、 父 吉田栄勝さんの指導の元、3歳からレスリングを始めた吉田沙保里さんはオリンピック3連覇、世界選手権などを含めると世界大会16連勝という輝かしい記録を作って2年前に引退されて、現在はTVやラジオの仕事で活躍しています。 吉田さんは1月に新型コロナウイルスのPCR検査で陽性と診断されましたが、2週間の療養を経て仕事に復帰しています。 親子で成し遂げた連続世界一吉田沙保里さんに伺いました。
引退を宣言してからいろんなやりたいこと、レスリング以外のことをやれた2年だったと思います。 人と話すことは昔から好きでした。 自分から攻撃していくことが自分のスタイルです。 自分は弱虫で泣き虫で甘ったれだったと、出版した本には書いています。
小さい時から負けたくないというのはありました。 3歳から始めて5歳で初めて試合に出たときに勝った男の子は金メダルを取って、強くなって勝ったものしかもらえない、欲しかったら頑張りなさいと父に言われてそれから頑張りました。 家の中に道場があったので自然と入っていきました。 父は公務員をしながら自身で道場を作って近所の子に教えていました。
小学校で全国大会に出るようになって父は力を入れる様になりました。 小さい時には父は怖くて大嫌いでした。 人としゃべる時には人の目を見てしゃべれとか、挨拶も人に聞こえなかったら挨拶にはなっていないとか、普段の生活の細かい事をしつけられました。ピーマンとか、子供が嫌いなものは嫌いでした。 肉とか餅とか甘いものは大好きでした。
中学生になってアトランタオリンピックの女子の柔道を見て やわらちゃん(田村亮子)と言われた強い選手がいてかっこいいと思いました。 中学生の時にオリンピックの舞台に出て金メダルを取りたいと思いました。
手首を脱臼骨折して手術をしてボルトを3本手首に入っていて全治3か月と言われたが、手術後一か月半ぐらいに全国大会の試合があり、この試合に出ないと翌年の国際大会の日本代表として出られなかったので、自分では試合には出れないと思っていたが、父から「出ろ」と言われて、医師からは「将来手首がどうなっても知りませよ」と言われたが、ボルトを短く切ってもらって、テーピングをしっかりして、試合に出て優勝することができました。
その時には父は鬼だと思いましたが、父としてはできると思ったものと思います。 自分が親の立場だったら絶対できないことだと思います。
2004年アテネ大会から女子レスリングがオリンピックの種目になりました。 世界選手権の代表選手になるために日本で優勝しないといけないと思いましたが、ライバルには山本聖子選手(2歳上)がいました。
山本聖子選手は世界チャンピオンになっていたので山本聖子選手さえ倒せば世界チャンピオンになれるとは思っていました。 大学1年生の時(2001年)にオリンピックの種目に正式採用されて、その瞬間スイッチが入りました。 12月の全日本選手権大会で準決勝で山本聖子選手に逆転負けしてしまいました。
それまでは絶対勝てないような差がありましたが、もう少し頑張ったら勝てるかもしれないという気持ちになってきました。 3位決定戦に勝ってそこから連勝が始まりました。2002年4月の大会に山本聖子選手に勝つことが出来凄くうれしかったです。 2003年の全日本選手権大会には膝を怪我をして病院にも行かずにテーピングして出場しました。2004年アテネオリンピックに出場、金メダルを獲得しました。 2008年ロンドンでは旗手を務めました。 その時に父がコーチとして来てくれて、優勝の瞬間には父を肩車しました。
2014年3月父は車を運転していて、クモ膜下出血でしたが、高速道路の路肩に止めて、パーキングにレバーをセットされていました。 いつもひとには迷惑をかけるなと言っていましたが、その気持ちがそうさせたものと思います。 名古屋で名古屋で合流する予定でしたが、病院に運ばれたという事を知って、帰った時には亡くなっていました。 父のお陰で今の私があると思っています。 父は人の性格などを見て、その人に合わせて指導する人で指導能力がある人だと思います。
私は盛り上げ役で、私は指導者してという事はできないと思います。
コロナ禍で東京オリンピックがこんなことになるとは思わなかったが、選手の人たちは自分に負けたらお終いなので自分自身との闘いかなと思います。