上野眞奈美(プロスキーヤー) ・【ママ☆深夜便ことばの贈りもの】アスリートであり、親である
1984年神奈川県横浜市生まれ、37歳。 子供が3人。 2歳でスキーと出会った上野さんは中学、高校、大学とスキー競技に取り組み、プロスキーヤーとしてワールドカップ、世界選手権など世界を転戦、一度競技を引退しまいたが、競技に復帰してスキー競技初のママアスリートとして2014年ソチオリンピックに出場しました。 その後ママアスリートのネットワークに携わり2020年に一般社団法人「MAN」を設立し、代表理事に就任。 妊娠、出産、育児といった人生のライフイベントと競技生活の両立に悩むアスリートたちを繋ぎサポートしています。 上野さんに子供を持つアスリートとして社会に伝えたい思いなどについて伺いました。
野沢温泉村はまだ里に雪は降りていません。 会社を立ち上げいまはアウトドアアクテュビティー主に自転車を提案、ヨガとなどのインストラクターもしています。 1年を通じてスポーツを提案できるような授業を心掛けてやっています。 ママアスリートが東京オリンピックで活躍したことでメディアに紹介されたことが増えて、社会的認知度が上がったという風に思いました。 「MAN」という活動は女子支援プロジェクトの一環としてママアスリートネットワークという活動から始まっています。 M(ママ→ヒューマンのMへ)A(アスリート)N(ネットワーク)と頭文字をとっています。 女性だけとはこだわりません。 新しい種目には注目してみて行きたいと思っています。
元々はフリースタイルの競技はやっていませんでしたが、大学を卒業してからフリースタイルスキー・ハーフパイプという競技を始めました。 競技を知ってもらうための一番の発信力はオリンピックなので、そのうちオリンピック種目になるだろうという事でオリンピックに出たいという気持ちがありました。 2009年にオリンピック種目にはならないということが判りました。 結婚もしたのでアスリートは引退して家庭と、夫もスキーをしていたので会社運営をしていこうという事になりました。 バンクーバーオリンピックが終わった後に長女が生まれて、店も始まりました。 ソチオリンピックではフリースタイルスキー・ハーフパイプが種目になるという可能性が出てきて、主人が「どうするうの」と言って来たので、どうしようかと思ったのがきっかけになりました。 周りの人から子供がいたから夢をあきらめた、という人がいるかもしれないと思った時に、それが怖くて、自分はやるしかないと思いました。
出産で元に体を戻すという事にはできないと思い、新しく自分を作ろうと考えました。 つらさも有りましたが、家族の存在もありあきらめない自分を作り出してくれました。 ONとOFFをしっかり取るという事で自分のメンタリティーの部分は保っていたかと思います。 家事、育児は家族、周りにささえてもらいながら両立させてもらってきました。 夫の存在は主人という事と、経営のパートナーでもあり、コーチであり、弱音は吐けませんでしたので、孤独を感じていました。 12競技を展開しています。 志高く前向きにチャレンジする方たちなので、自分たちで解決方法を見出しながらやっています。
私の選手時代と今とでは悩みが変わってきた部分と変わらない部分とがあります。 変わって来る部分に対しては各競技団体がどれだけアスリートの可能性に対して、耳を傾けて改善していこうかという思いを持っている協会はどんどん変わる、イコール 選手の立ち振る舞い方、選択の作り方みたいなものは変わって行っているような気がします。 ママアスリートは特別なことをやっているように思われるが、やってい居る人たちは特別とは思ってやっているわけではないです。 自分がやりたい環境はスポーツだけに限らない、芸術、一般の事務であっても同様だと思います。
今一番下が2歳の子がいて子供は3人ですが、今まだ両立は出来てないですね。 上が中学に、次が年長さんになるわけですが、手のかかり方がそれなりに違います。 どうしても時間の制限があります。 ずいぶん寂しい思いをさせた時期があったと自分では思っていますが、うちの子は全然覚えていないんです。 遠征に連れて行ったりしましたが、自分が楽しかったことは覚えています。 今寂しい思いをさせていると葛藤しているお母さんがいるかもしれませんが、大丈夫です。 頑張る母親の背中を見ていますので、しっかり背中を見せて、次の時代には背中を押してあげる母親にともになっていたいです。 人を頼るのが当たり前で一人でなんてできないので。