岸田奈美(作家) ・「もうあかんわ」を切りぬける岸田家、母と娘の15年(2)
パラリンピックのスタジオゲストやワイドショー、ニュース番組のコメンテーターとして活躍しているエッセー作家の岸田奈美さん(30歳)。 ダウン症の弟良太さんのこと、中学時代に心筋梗塞で亡くなった父親のこと、大動脈乖離で車椅子ユーザーとなった母親のこと、家族のことや日々のてんやわんやを軽快な関西弁で綴り、相次いで書籍化されています。 その岸田奈美さんと母ひろ実さんが家族のピンチをどう乗り越えてきたのか、母と娘はどう見き合って来たのかを3回シリーズでお送りします。 二回目は作家岸田奈美さんが娘の側から見た岸田家の道のりを伺いました。
父は面白かったです。 しょうもないほら話をしていました。 父は当時はだれもやっていなかった古いマンションをかっこよくリノベーションするという仕事をしていました。 後から聞いたら阪神大震災で家が壊れてしまった人たちへ何もしてやれなくて、それが嫌になって独立したという事を聞きました。 楽しそうに仕事をしていました。
母はいろんな友達からは「綺麗で優しいね」と言われていました。 母は父とは真逆で心配性でした。 4歳下の良太はダウン症で現在25歳でどこででも爆睡したりします。 良太がお金を持たずに出かけたのにコーラを飲みながら帰ってきて、万引きでもしたのかと思ったら、レシートがありその裏にお金は後日で結構です、と記載されていて後日母が謝りに言ったりしたことがありしました。
私が小学校に入るぐらいに、弟にはダウン症という障害があるという事を母から告げられましたが、その時には治ると思っていました。 母からはその後に治らないことを告げられました。 可哀そうだと思って一晩めちゃめちゃ泣きましたが、弟は楽しそうにやっているし、何が可哀そうか良く判らないという事に気付きました。 弟が小学校に上がる時に先生が「奈美さんは色々大変なのでみんなで一緒に助けてあげましょう」と言ってくれました。 自分自身では大変とは思っていなかったので、先生の大変という言葉をみんなの前で言われたことがすごく悔しくて泣いて帰ってきました。 母が買ったダウン症に関する絵本がありそれをもっていって先生に渡しました。
私が幼いころ転んでしまった時に、母は弟を抱っこしていてどうしてちゃんと助けてくれないのか、弟ばかり可愛がるのかと言って泣いた時があるという事で、母はその時のことが忘れられないという事でしたが、私は全然覚えていないんです。 弟はとんちんかんことはするが可愛いし面白いし、くやしかったです。 弟とは仲がいいんですが、そうやっていられるのは母が弟ばかり手を掛けるのをやめて、「奈美ちゃんが好きだよとか奈美ちゃんが好きな様に生きてほしい、良太のことは面倒見なくてもいい、そのまま一緒にいてくれたらいい」と言ってくれたことなどが、影響したと思います。
小中学校の頃のことはおぼろげに覚えているぐらいで、両親が「奈美ちゃんは天才だ」とか褒めてくれたりしていましたが、あとから聞いたら私があまりにも自信がないから、褒めようという家庭方針になったという事です。 学校では全然そんなことではなくて、家と学校でのギャップになんでという思いが重なって行きました。 友達と呼べる友達はいませんでした。 父がマック(パソコン)を買ってきてくれて「お前の友達はこの箱の中におる」と言ってくれて、嬉しくてそこからパソコンの世界にはまりだしました。 学校でのアニメ、芸能人とかの話題には全くついていけませんでした。 家では爆笑してくれたりしましたが、学校では劣等感がありました。 中学校でも同様でした。
中学の遠足で「愛地球博」という万博から帰ってきて、いろいろ話をしようと思って父が帰るのを待っていました。 父が帰ってきましたが、「疲れているから明日でいいか」と言われました。 凄くカチンときて、「死んじまえ」と言って、部屋に閉じこもりました。父は実はその晩に心筋梗塞で倒れて救急車で運ばれていって、朝起きたら弟と二人だけで、母から電話が掛かってきて、今病院で父が手術をしているというとでした。 2週間後に亡くなり39歳でした。 頭が真っ白になりました。 「死んじまえ」が最後の会話になるなんて全く思っていませんでした。 忙しさのあまりに泣く間もなかった母が葬儀の喪主の挨拶で初めて泣きました。 子供の前では明るくふるまう、女優になるんだと言っていたようです。 母は整骨院で働いたり暮らしを支えるために凄く頑張って居ましたが、子供の目からは朝には綺麗な色どりのお弁当はあるし、家のなかは綺麗だし、今まで通りの日常でしたが、あとから考えるととんでもない事ですよね。(当時は気付かなかった。)
高校2年生の時に母が突然倒れました。 救急車を呼んで病院に行って、次に大学病院に行って大動脈乖離という事でかなり危ない状態でした。 手術をしても8割の確率で亡くなってしまうという事でした。 手術をしても後遺症が残るが、手術をするかどうかを聞かれました。 死んでほしくないので「手術をしてほしい」と言いました。 手術は成功して手術室から出てきました。 しかしそのまえに待合室で待っている間に、予定していた手術の時間よりも2,3時間早く終わってその電話があり、死んでしまったと思いました。 母の意識が戻って医師からは、一命はとりとめたが、下半身に麻痺が残ってしまって、とは言ったが歩けなくなるとは一言も言いませんでした。 訓練したら歩けるのではないかという希望を母も私も思っていました。 しかし歩くことは駄目で、そこから始まったリハビリが物凄く過酷でした。 母は決して辛さは顔には見せませんでした。 或る時に母がベッドで泣いているところを見てしまいました。 その後も母は決して辛さは顔には見せない、女優を演じました。
或る時カフェでジュースとパスタを頼んで母と向き合った時に、母が言葉を出しました。 「ずーっと言わなかったが、死にたい。 歩けないなら死ぬ方がましだ。」と言いました。「死にたいなら死んでもいいよ」と答えました。 いつか言われるとは思っていました。何もしてやれない辛さがありました。 直感で「死なないで」と言ったら、母は本当に死んでしまうと思いました。 「もうちょっと待ってて、2億%大丈夫だから」と言いました。 ここで父親譲りのほら吹きが出ました。