飯田絵美(スポーツライター) ・【わが心の人】野村克也
野村さんは1935年(昭和10年)生まれ、プロ野球選手として、コーチ、監督として、野球評論家、解説者としても活躍しました。 2020年2月11日亡くなりました。(84歳) お話はジャーナリストの飯田絵美さんです。 飯田さんは新聞記者として野村さんを取材したのがきっかけで親しくなり、野村さんが亡くなるまで23年余り親交を深めてきました。
スポーツが好きで、高校生の頃スポーツ記者になりたいと思って、新聞記者になりました。 野村さんがヤクルトの監督の時に出会って、以来23年間以上交流を続けてきました。 現在、キャリア―カウンセラーをしています。 このきっかけになったのも野村さんの御陰だと思っています。 2020年新聞社を退職、東京オリンピック、パラリンピックでベニューメディアマネージャーという仕事を経験しました。
ヤクルトの番記者になりました。 年間を通じてずーっと担当チームと一緒に行動し取材をする役割です。 最初の1年間は挨拶をしても監督から口をきいてもらえませんでした。 女性は一人だけだったし、どうせ野球の深い話はできないだろうと息子にぼやいていたそうです。 1997年ヤクルトがリーグ優勝する直前、ベンチ前に報道陣が野村監督の前に押し寄せていました。 一番遠くにひっそりとしていましたが、目ざとく見つけられてしまいました。 「お前なんでそこに座ってるんや。 お前みたいなぶすがよう俺の前に座るなんていい度胸や 立ち去れ」と言われたことがあります。 おどけた振りでゆっくり立ち去ろうと、それがせめてものプライドというか、周りに同情されているのをひしひしと感じながら帰るのがつらかったです。 家に帰って泣きました。 野村さんは人を試す言葉を言ったり、あえてその人を無視したりすると聞きました。 それに対してどういう対応をとるのか、お前も試されたのではないかと言われましたが、当時27歳で物凄く傷つきました。
番記者2年目、アメリカのユマでヤクルトの春のキャンプをやっていました。 私は連載記事を書き始めました。 たまたま野村監督と夜9時ごろに二人だけになる機会がありました。 「こんばんわ」と言って走って立ち去ろうとしたら、監督が連載記事について話しかけてきました。 どうして私の書いた記事だとわかったのかと思ったら、「あれを読むとな、あったかい気持ちになる。 女の持つ母性や。 あれはお前にしか書けん。」と言って自分の母親の話を涙ながらに15分以上話をしてくださいました。 それをきっかけに私を無視することがなくなりました。
タイトルが『遺言 野村克也が最期の1年に語ったこと』という本を野村監督の誕生日6月29日に出版しました。 監督と一緒に本を出そうと約束していました。 テーマは「人生の後半生をどう生きるか。」でした。 「誰もがプロ野球界で成功するわけでも無し、引退してから本当の人生が始まるんだぞ。」という事を聞いてから、野球選手だけではなく、ビジネスマン、主婦でもつぎにどこにむかうのか、どう生きて行こうかと立ち止まる瞬間は誰にでもあると思いました。 励ましを与えられるような、一歩踏み出せられるような勇気が得られるような本を出そうと二人で決めていました。 そんな時に野村さんが亡くなってしまって、物凄くショックでした。 30代で父を亡くした私にとって親しみのある存在でした。 私自身も会社を辞めてコロナ禍でもあるし、自宅に引きこもって何度も泣いていました。 教え子である元選手とか、周りの記者などから野村さんが最後に何を考えていたのか、知りたい、それを読みたい、野村家の方からも父の言葉を残してほしいとの話がありましたが、躊躇していました。 番記者仲間から「野村さんとの約束守れよ」と言われて背中を押されました。 野村さんの言葉に「使命感とは命を使うことだ。」というものがありますが、この言葉を自分に言い聞かせて、1年かけて書き上げました。
内容は沙知代さんの死、から始まります。 2017年12月に沙知代さんが突然亡くなった時を境に本当に変わりました。 自分の死も覚悟したと思います。 すっかり元気がなくなってしまって、日常生活でも車椅子になってしまうぐらい足腰も弱くなってしまいました。 沙知代さんは野村さんにとって生活の中心でした。 沙知代さんは世間を騒がす出来事がいろいろあり、息子さんたちからは離婚してもいいよと言われたそうです。 一瞬考えたそうですが、「今別れたら彼女はどうやって生きてゆくのか、こんな時だからお母さんを支えよう」と言ったそうです。 野球以外の分野で様々な人の話を聞いたり、本を読むようになったきっかけは沙知代さんのお陰なんです。 「沙知代がいなかったら名監督と言われるようにはならなかった」と感謝していました。 沙知代さんは女性が監督に近づくことは極端に嫌がっていたので、私も大変でした。
ファッションについては、明るくて華やかな色が好きでした。 「60歳を過ぎて地味な服を着ていたら、地味な仕事しかできない。 華やかは自信の表れ、自分自身を大切に扱っている証」という持論を持っていました。 アクセサリー、指輪も素敵なものを付けています。 私が30歳になった時に、指輪とピアスを監督から頂きました。
私にとって監督は人情があって温かくて、厳しくて、茶目っ気がある、年齢で限界を作らない、人に対して結果を急がない、そう言う人でした。 テスト生として入団して大変な野球人生を送ってきたので、経験に裏打ちされた言葉、たくさんの人から聞いた言葉、たくさんの本からの知識から、野村語録、名言が生まれたんだと思います。 スポーツ界で野村さんほど著書が多い人はいないと思います。 幅広い年齢層の方、状況によって野村さんの言葉は何が響くか変わって来るのかもしれません。
①年齢で限界を作らない。 ②適齢適所。(人は年齢に応じて輝ける場所が見つけられると感銘受けました。 年齢を重ねるにつれ野村さんの意味、真意、深さが判るようになります。) ③いい仕事は必ず誰かが見ていてくれる。 高津監督(ヤクルト)、矢野監督(阪神)、新庄監督(来季日本ハム)、稲葉監督(東京オリンピック)、皆さんみんな野村さんの教え子なんですね。 彼らは現役時代に野球理論だけではなく、野村さんの人生論をたっぷり聞いて育ったんです。
野村さんにとって長嶋さん、王さんは永遠のライバルでした。 地味な月見草を自分に例える。 対極のヒマワリは沙知代さんが即答したそうです。 長嶋さん、王さんは太陽のもとで咲くヒマワリ、俺は人の見ていないところでひっそりと咲く月見草。 84歳で亡くなる10日前に息子の克則さんに「 東京オリンピックの監督 わしではだめなのか、なんでわしに要請せんのやろう。」といったそうです。 「日本は年齢に縛られ過ぎなんや。 どっかの球団から監督の声かからないかなあ。」とぼやいていたそうです。グラウンドに行って仕事がしたいと、高校野球の監督もしてみたいと言っていました。 私から見て野村さんのかっこよさは、泥臭く自分を必要としている人を必死で探して、自分がやりたい好きなことを野球のために最後まで泥臭く生きたところです。
野村さんの母親ふみさんは看護師で、夫を戦争で亡くして女手一つでいろんな仕事をして二人の息子を育て上げました。 人のために役に立つこと、それが母親の背中を見て学んだ答えだったと思います。 貧乏だったので、母親を楽にさせたい、腹いっぱい食べさせてあげたいという思いが、名もない高校生がプロ野球に向かわせたという事でした。 母には何度感謝しても感謝しきれないと私に言っていました。 どう生きるかという人生のテーマに常にお母さんの存在があったんだと思います。 託された野村さんの言葉を活字とかメディアで伝えていきたいと思っています。