野村万蔵(能楽師狂言方和泉流) ・伝統芸能を受け継ぎ半世紀、新たな挑戦
野村萬(七世野村万蔵)の次男として東京都に生まれ,4歳で初舞台を踏みました。 2005年、兄の急逝のため39歳で野村万蔵を襲名、一門の組織 よろず狂言を率いて国内外で活動を展開、現代演劇やNHKの大河ドラマに出演するなど活躍の場を広げてきました。 又流派を越えた能楽の若手研鑽の場「立合狂言会」を発足させ、能楽の普及発展にも力を入れています。 初舞台から半世紀、思いがけなく兄の後を引き継ぎ夢中で駆け抜けてきたという万蔵さん、この12月23日自身の誕生日に新たな一歩への思いを込めて「万蔵の会第一回」公演を行います。
「泣尼」で面を付けて老婆を演じる。 狂言では太郎冠者が有名で、狂言でも面を付けてやる事があります。 「泣尼」はあまりやらない演目で3,4度やりました。 56歳になりますが、ガタが来ました。 ジムには週一で通っています。 万蔵を継ぎまして、家全体のことを考えて切り盛りする毎日です。 去年の10月半ばに胃がんの初期ですが、摘出手術をして大分体が弱って痩せてきました。 1年ずらして「万蔵の会第一回」公演を行います。 兄が癌で44歳で亡くなり、母も胃がんで亡くなりました。
初舞台は4歳でした。 舞台から落ちてしまいましたが、お客さんが舞台の上に乗せてくれて続けました。 父親は厳しいです。 ほかの道に進もうとは思いませんでした。 いい色に染められていて抜け出せないような感じでした。 兄が急逝したため全部ひっくるめてやっているので、頑張ってやっています。 家の方のことも万蔵という名前も自信もって名乗りながら舞台活動をしてゆくのにも10年ぐらいかかりました。
今までやってきたこと、家なり自分が伝統をやってきたことばかりずーっとやっていると、凝り固まって来ると思って、人さまとの出会いでちょっと違うところのジャンルとやったり、新作を作ってみたりして、段々経験値を重ねて、チャレンジしてきました。 ドラマにも出たことがありますが、これも御縁ですね。 兄は破壊するパワーがありました。 自分が家を継いで、狂言を大事にしたいという事は根底にあるくせに、真反対をやるとか、改革するとか、ちょっと変わった兄でした。 兄が違うジャンルのものばっかりやっているものですから、本業の方がおろそかになってくる。 そうなると父親と共に正当なことをやって行くという事になりました。 兄は45とか50歳の節目で狂言をしっかりやって行こうと思っていたんだと思います。 兄は45歳で万蔵を継ぐ予定でした。 身体が弱ってきて二人だけになった時に、私にははっきりとは言いませんでしたが、「後を頼むぞ」と、それに「正当な事ばっかりやっていても今の時代は駄目だから、もっと新しいことにチャレンジしていかなきゃ駄目だぞ。」と言われました。
それからお笑いタレントの方たちと狂言を作ったりとかもずーっとやっています。 海外にも行っています。 母の教えの言葉の一つに、「中庸を得る。」という事をずーっと言われていました。 バランスを取りながらやっているイメージです。 家は加賀前田藩のおかかえの能狂言方の胴元役みたいな家で2022年は初世の万蔵が生まれて300年という記念の年で、来年は300年を記念した祖先祭というものを東京で予定しています。
「万蔵の会第一回」公演という自分で自分の会を考えた時に、初めて主役をやった「痺 (しびり)」という子供の狂言で父親とやって、これを50年経って、92歳の父親と56歳の私がこの狂言の出発点となった「痺 (しびり)」をやってみようと思いました。 稽古無しでぶっつけ本番でやろうと思っています。 我々和泉流にしかない大事な曲がありまして、巨勢 金岡(こせ の かなおか)という宮廷画家が高貴な女性に惚れてしまって、妻も私だって化粧をすればそのぐらいにはなると言って顔にペインティングをするわけです。 それと「彦一ばなし」などをやります。 誕生日に決めたのは母親に頑張っているよというような思いもあります。 今よりも将来のモチベーションがとても大事だなと思っています。 繋がってゆく、繋げてゆく、繋げてくれる意志のあるもの、それが見えている、そういうものと共に生きてゆく、それが私の今のモチベーション、幸せですね。