2021年12月15日水曜日

梅田純一(陶芸家)           ・ドナルド・キーンさんが遺してくれたことば

 梅田純一(陶芸家)           ・ドナルド・キーンさんが遺してくれたことば

昭和25年東京都駒込生まれ、71歳。  20歳の時に独り立ちして物作りの道に進むことを決心し、日本一周徒歩の旅で見聞を広め、本格的に陶芸に取り組みます。   梅田さんがドナルド・キーンさんと出会ったのは33年前のことです。   キーンさんが梅田さんのお皿を買い求めたのがきっかけです。   その後おおよそ30年間キーンさんが亡くなるまで二人の交流は続きます。   キーンさんは徳島県海陽町の梅田さんの工房を5回訪れています。 日本初のドナルド・キーン文庫を海陽町に残しています。     

東京の個展の時にキーンさんが来て鉢を買い求めてくれました。   キーンさんは日本文化研究者で2008年外国人学術研究者として初めて文化勲章を受章。   東日本大震災の後日本に帰化する。  震災の時に外国人が日本から離れることに対して、励ます意味でこの機会に帰化することを決めたそうです。   日本の文化、歴史等様々な、厚みのある研究者です。  

僕は陶芸家は借りの姿だと思っています。   本職は人間と思っています。  キーンさんは好きなことだけをしてきたと言っています、もともとそういう人です。   僕は京都で修業をし、独学で出会うものすべて師とする、という教えに出会いました。   池田諭という人で 『独学のすすめ』という彼の本を読んで、感激しました。  その後日本一周の旅に出ました。   一番出会わなければいけないのが自分自身、そのためにいろんな人と会って自分自身を見る。   歩くことはものを考えるのにもちょうどいい速さで、人と出会う機会も多い。     キーンさんは日本の文化は良いというのではなくて、日本の良い文化という考え方です。   歩く旅は辞められなくなってしまうので、1年と決めてあとは実践するという風に考えました。   26歳で本格的に陶芸の道に入りました。(所帯を持っていた。)   バブルがありましたが、これは必ず終わるので値段を上げずにいて、それが今日まで続けられることになったと思います。    いいものを作ることを使命として考えてゆけば、たまたま食べられた。 長男はシルバーアクセサリーの作家、次男は石垣島で皮の小物を作っています。  

43歳で徳島県の海陽町に移住しました。   旅で出会った海陽町の人と夢を語り合って、後に住むとしたら、海陽町だといったら、場所は探すと言ってくれました。   それから20年、廃校になった学校を紹介してもらいました。   周辺には人家がありません。   「人は皆生まれた時はアーティスト」と言っています。   大人になり切れない人たちがいて、感性が鋭いからそうなってしまうんで、上手に生かす場所を本人が見つけて周りが援助してあげれば、素晴らしいアーティストとして生きてゆける。   回りを明るくする人だったらその人はアーティストだと思います。   

2007年1月6日、日本経済新聞の海陽町をコメント。  初めて海陽町に来た時のことを紹介している。    キーンさんは地方を重要視していた方でした。   ドナルド・キーン文庫を作りました。   その後5回訪問する。  「ゆく夏や 別れを惜しむ 百合の昼」という俳句をキーンさんが残してくれました。    山百合が群生している場所があり、そこでスケッチをしていたが、そこの場所をキーンさんに見せました。  僕が描いている絵にその句を書いてくれました。   この地は明治維新の前、新しい夜明けを信じて土佐藩を脱藩 した二十三士の生き死にを決めた場所です。  あまり世に知られていないこの悲劇を後世にも伝えようと地元の仲間と活動していた時期でした。  二十三士は殿様に新しい世をと提言し、ものを申して殺された。  白虎隊は殿様に殉じて殺された。   白虎隊は有名だが、二十三士は国にとっては都合が悪いので消し去られた。  二十三士は本当は素晴らし生き様だと思います。  

シロツメクサ(白詰草)をキーンさんは好んでいました。  その絵皿を買っていただき、自身のブログに載せていただきました。  鎖国の時にオランダの出島にガラス食器が入って来るが、クローバーの干し草を詰めてくるが、その種が生えてきて白い花が咲き、この白い詰めてきた花はなんだという事になり、白詰草となったとキーンさんに説明したら、キーンさんは自分を指さしていました。(自分も同様に日本に来ていろいろな種をまき花を咲かせていった。)  

新潟の柏崎にキーンセンターがあります。  地元菓子のメーカーがセンターを管理していて、キーンさんのニューヨークの書斎を移築してある。 いろんな資料を展示してある。  私の展覧会もそこであります。  

「益々仕事を頑張りなさい。 仕事に励みなさい。 人生を楽しみ続けなさい。」と廃校の黒板に英語で書いてくださいました。  その裏には私のように、という事だと思います。 

大きな組み絵皿を100枚作って、ラクダの命、蝶の愛、千羽鶴の平和、命と愛と平和の3部作で柏崎に展示して発信して、ほかでも発信していきたいと思っています。  来年はキーンさんの生誕百年でいろいろ行事が企画されています。  キーンさんは日本のノーベル文学賞の推薦者でもありました。 谷崎潤一郎だったらしいが、亡くなってしまって、三島由紀夫ではなく年功序列で川端康成になって行った。  「ペリー以来100年後、文化を開国させたのはドナルド・キーンだ。」と或る編集者が言っていました。