仲里心平(伯州綿シャツ職人・元境港市地域おこし協力隊) ・伯州綿に魅せられて
シャツと言っても肌着ではなく、カジュアルなシャツ、女性でいうとブラウスに当たります。 地元で古くから栽培されてきた貴重な国産の綿、伯州綿を使った生地で一人一人に合わせたオーダーメイドで仕上げるのが特徴です。 仲里さんに貴重な伯州綿について、地元で育てた原料を使いすべて手仕事で仕上げるものつくりをなぜ始めたのか、どんな思いで取り組んでいるのか、伺いました。
鳥取県の西部はかつて伯耆の国と呼ばれていて、場所を意味する州と合わせて伯耆の国の綿を伯州綿地位われていました。
私の出身は神奈川県横浜市です。 大学卒業後アパレル会社に勤めて、洋服の企画、製造を経験して、その後織物職人となり、生地の企画、製造に携わりました。 4年前鳥取県の境港に移住して、伯州綿の栽培に携わったのちに、伯州綿のシャツ屋を立ち上げ現在に至ります。 大学では陶芸研究科に入りました。 このころから原料であるもの作りへのこだわりや、憧れがあったんだと思います。 この体験が現在行っている、原料からの物つくりの伯州綿へ繋がっていきます。 会社では机上でほとんどが進んでゆく仕事場でした。 思い描いていた物つくりとは違って、意を決して山梨県に移住して機織り職人の道に進みました。 原料からの物つくりをやりたいと思うようになりました。 境港市では伯州綿の栽培を通して、地域の活性に取り組んでいるという事を知りました。 地域おこし協力隊を募集していることを知り、境港に移住して地域おこし協力隊になりました。 2020年8月末地域おこし協力隊を満了して、昨年9月から伯州綿のシャツ屋を始めました。
山梨県ではたくさんの素材に触れることが出来、そこで和綿の存在を知りました。 和綿は江戸時代に各地で生産され流通されていました。 明治時代の関税撤廃をもとに外国の綿が大量に輸入され、和綿が衰退していきました。 現在の衣類のほとんどは原料は海外製です。 そこで山梨県で見よう見まねで和綿の栽培を始めました。 綿を十分に収穫できませんでした。 境港市では伯州綿の栽培を通して、地域の活性に取り組んでいるという事を知りました。 伯州綿で様々な製品の企画、製造をしています。 伯州綿は5月ゴールデンウイークを過ぎた頃に種をまき秋に収穫します。 伯州綿のPRも行ってきました。
鳥取県は雪国と言われていますが、鳥取の夏は意外と暑いんです。 初めて伯州綿を収穫した時に境港に来て正解だったと思いました。 伯州綿のことについて歴史などを含めて詳しく調べて行きましたが、それを通して多くの方々と関わることができました。 伯州綿の多くは弓浜半島で栽培されていました。 弓浜半島は17kmに渡る砂州で出来ていて、この砂地が綿栽培に適していると言われています。 綿は水はけがよく養分が少ない方がよく育つと言われています。 砂地からの反射熱により、開いた綿は繊維のねじれが強くなり、弾力を増してよい綿が生産されます。
綿井戸は綿に水やりのための井戸です。 7月から8月の成長期には多くの水を必要とします。 弓浜半島では3m程度掘ると地下水が湧きあがり綿栽培には困らなかったと言います。 綿井戸は直径2~4mで深さは2~3mで、明治時代のころは弓浜半島全体で約8750か所の綿井戸があったと言われて、水やりは女性の仕事だったそうで一日100回ぐらい水をくみ上げていたそうです。
綿栽培の肥料はニシンかすや油粕が多く使われていました。 弓浜半島ではナカウミやホキから採取される藻葉と言われる肥料藻の存在でこれが重要なものでした。 ニシンかすに比べて1/15程度の価格。 自力で入手でき野菜の肥料にもなる。
「弓浜かすり」というものがあります。 伯州綿を原料に300年以上前から受け継がれてきました。 深い藍の色と綿の白さで表現された多彩な絵柄です。 鶴、亀、花鳥風月、幾何学模様等様々です。 機織りは女性の手で行われていました。
伯州綿のシャツ=歴史や文化の薫るシャツ 今は完全フルオーダーをやっています。 お客さんと3回程度相談ながら制作を進めていきます。 ようやくスタート地点に立ったという思いです。 今後は販路をひろげしっかりと伯州綿のシャツが売れています、と言えるように精進していきます。 伯州綿の特徴や歴史を紹介する活動として、定期的に年3回綿講座を行っています。