山田火砂子(映画監督) ・女性も活躍できる世に~矢嶋楫子の人生を描く
山田さん(後2か月で90歳になる)は お子さんに知的障害があったことをきっかけに64歳で監督デビュー、福祉に関する映画を何本も撮り厚生労働省児童福祉文化賞などを受賞、その後日本で初めて国家資格を持つ女医となった荻野吟子など、女性が活躍出来る社会の先陣を切った女性たちの映画を撮るようになりました。 今回の映画は公娼制度の廃止や禁酒運動、婦人参政権の獲得に力を尽くした団体、矯風会の設立者矢島 楫子の人生です。 大手配給会社を通さず資金は寄付を募り、ボランティアが多く参加するいわば手作りでの映画制作を続ける山田監督に映画作りの思いや、年齢に負けないパワーの元を伺いました。
荻野吟子さんを映画にした時に、荻野さんが矢島 楫子先生を尊敬しているし大好きなんですね。 三浦綾子さんの「われ弱ければ 矢島 楫子伝」を読んで、これは映画にできると思いました。 荻野吟子さんは苦労して女性第一号の医者になった人ですが、女性の学校がなかったので男に成りすまして、トイレに不自由するのでお茶も飲まないで、頑張って通ったという話が残っています。 矢嶋楫子さんは教育者として婦人矯風運動(禁酒運動)に率先して参加、矯風会、女学校を設立する。 矢嶋楫子さんが最初結婚した相手が武士でしたが、酒乱なんです。 小刀を振り回した時に腕に刺さってしまって、女性から離婚届けを出して、世間から批判された様です。 当時250石というとお金持ちの部類ですが、綿から木綿を作って行って、下着は全部自分の家で作るんです。 洗濯物は男性と女性とでは別々に洗わなくてはいけないし、干すのも別々です。 食べる時も男性が上でそこから先に行ってはいけない。 特に鹿児島、熊本など男尊女卑の凄いところです。 矢嶋楫子さんは熊本出身です。 1男7女の6女(末子)に生まれますが、父親は又女かと名前を付けない。 姉が「かつ」という名前を付ける。
船に乗って東京へ来る時に、船は舵で動くと、私も自分の人生を「かじ」で動かしてやるという事で、名前を「楫子」と変えてしまうんです。 兄の元に行く。 兄は大参事(副知事)兼務の左院議員で、神田の800坪の屋敷に書生、手伝いらはもとより千円という借金を抱えていた。楫子さんはその放漫財政を正し、3年で借金を片付ける。 生来の向学心から教員伝習所に通うこととなる。 1年通っただけで先生になってしまいます。 当時、明治三十数年まで戸籍のなかにお妾を入れるんです。 吃驚しました。 楫子さんは怒って一夫一婦制にしてくださいと論文を書いて、切腹させられるかもしれないと白装束で陳情に出すんです。 荻野吟子さんと共に女性議員になりたくて、女性のためにという事で世の中を動かしたかった。 何しろすごい女性です。
映画にして知らせなければと思いました。 当時は40歳過ぎるとおばあさんでしたが、彼女が40歳を過ぎて、「ここで楽をしようなんて考えないで、ここからが勉強です。 ここから政治、経済の本を読むとか日本のためになることを勉強してください。」と、これは良い言葉だなあと思います。 コロナ禍で大変な撮影でした。
楫子さんがいろいろ陳情の文章を書いていますが、書道の先生でなければ書けないような素晴らしい文字を書いています。(小学校がない時代なのに) 楫子さんの甥が国民新聞を作った徳富蘇峰さんでその後東京新聞になります。 徳富蘆花も甥です。 7人の姉妹ほとんど全員が女学校を作ったり、姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれています。 当時馬一頭の値段が8円で同じぐらいの値段で売春婦として女性が売られて行きました。 女性の位置が本当に低かった。
明治39年(1906年)、74歳にして渡米、万国矯風会第7回大会に出席、ルーズベルト大統領と会見します。 軍縮運動にも参加します。(87歳) 世界軍縮運動があり、軍縮運動には1万人の女性の署名をもっていっています。 この映画を作りたいと思ったのはもう一つ、或る新聞記者が「日本の女性が立ち上がってください。 あなた方が立ち上がったならば日本の国はいい国になりますよ。」と書いてくださいました。 女性が弱かったからあんな戦争になってしまった要因があるかもしれない、私たちが強かったら違った形で終わっただろうに、あんな戦争はしないで済んだんだろうにと思って、これから絶対に日本女性が頑張ってほしいという思いです。 三浦綾子さんをして、「もっと若くして矢嶋楫子さんを知っていたら、違った人生を送ったと思います。」と書いてあります。 私ももっと早く知っていたら、違った人生を送ったかもしれないと思います。
滝乃川学園もだれが作ったのか、どうして出来たのか全然知りませんでした。 留岡 幸助さん 「不良少年の父」と言われた。 日本の社会福祉の先駆者で、感化院(現在の児童自立支援施設のこと)教育の実践家。東京家庭学校、北海道家庭学校の創始者として知られる。 石井 亮一さん孤児3000人を助けたが、この人がどういう生涯を送ったのか知りませんでした。 映画を作るためには生まれてからの人々を調べなければいけないので、いろんなことを知り得ました。
何とか障害者の親が少しでも楽ができるようにしてくれないかなと思って、それには映画という武器だなと思ってやったのがいい結果になったから、日本で良いことをした人が知られていないから、映画にして残しておこうと思って、特に女性問題は絶対やろうと思って、滝乃川学園の女性園長になった石井筆子さんを映画にしました。(「筆子・その愛 -天使のピアノ-」)
音楽でバンドをやったり、舞台に出て、その後長女が障害者になったのをきっかけにして映画の世界に入りました。 50年前はお化けと言われたりしてダウン症の子などは大変でした。 山田典吾(映画プロデューサー、監督 「蟹工船」「真昼の暗黒」などを制作)と結婚。 福祉の問題、女性の自立をテーマにやってきています。 あまり作品にお金を掛けると回収能力がないので手作り的にやっています。 いい作品だと有名な俳優さんも協力して安い金額でも出演してくれます。 いろいろ協力者も関わってくれます。 エキストラとして出させてくださいと言って今度の映画に東大生が3名程度出ています。 プロデューサーとして14本、監督として9本。 テーマは何かという事を追及しているので、世の中が変わったらいいなあとか、喜んでもらえればと思って作っています。 私が戦争で死にそうになったのを助けてもらって何にも言わずに去って行った人もいれば、鬼みたいな人にも騙されたりして、人間にはいろんな人がいるんだという事が判ったのが、生きる源でしょうね。 良いことをした人を発掘して、こういう人もいるんだということを示してあげたい、日本の国もいい国になってほしいと思うので、そういう気持ちで映画を作り続けて行きたい。