葛西聖司(元「ラジオ深夜便」アンカー) ・「ラジオ深夜便」アンカートークショー
『ラジオ深夜便』を50代なかばで担当し、60歳前にNHKを退職しました。 初任地が鳥取放送局 コールサインがJOJG、次が宮崎放送局 JONG。 次が大阪放送局 jOBK、東京JOAK。 放送の科学が進んでいきます。 テレビでは大河ドラマ「独眼竜正宗」を担当しました。 連続テレビ小説『澪つくし』(みおつくし)も担当しました。 沢口靖子さんが20歳の時です。 大正時代末期から第二次世界大戦後にかけての千葉県銚子市を舞台に、醤油屋の旧家の娘であるヒロインと漁師の網元の長男との純愛を描く。 次に歌謡曲の番組を担当しました。 「昼の散歩道」など番組をいろいろラジオ、テレビで担当して『ラジオ深夜便』を50代なかばで担当しました。 「昼の散歩道」のスタジオが『ラジオ深夜便』でも使われ、窓のあるスタジオで好きなところです。 時々の外の情景を話すことが出来ました。 フリートークなので自分らしい表現をしたいとは思いました。午前零時には「まもなく午前零時、今日から明日になります。」というようなことを言っていました。 日をまたぐという事を意識しました。 江戸時代は夜明けから翌日になります。
「おしゃべりクイズ疑問の館」という番組を担当していた時に、私がクイズを出して4人のゲストの方が答える自由なトークをやっていましたが、言葉のなかでいろいろ部屋を変える(畳の部屋、ティールーム等々)という事をしていました。 ラジオで聞いてる方は色々と想像するわけです。 『ラジオ深夜便』でもやってみたいと思って午前2時にあることを始めました。 午前2時は丑三つ時 午後3時ごろを「おやつ」と言いますが、これは「八つ時」なんですが、昼間の「八つ時」で、真夜中にも「八つ時」ありこれが午前2時ごろです。 それで真夜中の「おやつタイム」を設けてしまいました。 駄菓子とか地方に行ったときに土産を買ってきて、例えばマイクの前でおせんべいをパチンと割って見せたり、いろいろ紹介したりしていました。 音で想像力を高めてもらうようなことをしていました。 中には真夜中におやつの話をするのは辞めてくださいという、手紙が来たことがありました。 病気でものが食べられない、食べたくなるから困ります、という事でした。
NHKを辞めたのが2011年の3月です。 『ラジオ深夜便』と「きらめき歌謡ライブ」が私の最後の番組でした。 3月11日は『ラジオ深夜便』の担当の日ではなかったが、アナウンス室にいました。 13階にいて、東京には高層ビルが沢山あるので、ガラスが割れたら大変だと思いましたが、それがなかったことを目視したことを覚えています。ラジオを聴きながら歩いて帰りました。 家に帰ったら本棚が全部倒れていました。 全部震災報道に変わりました。
音曲停止は私の人生で3回ありました。 阪神淡路大震災、昭和天皇が崩御された時、東日本大震災の日々、放送は有りましたが、音楽は絶えました。 放送担当しないまま退職することを覚悟ししていましたが、『ラジオ深夜便』が復活したのが私の担当からでした。 好きなテーマ曲は流れましたが、いうべき言葉がありません。 何を言っていいか判りせんでした。 アナウンサーとして何を言うべきか、私の卒業試験だと思いました。 この後、・・・(言葉を詰まらせる。) 「震災のための必要な情報は伝えます」と言いました。 合間合間には話さなければいけないことがいくつもあり、どうやるかを考えました。 真っ暗で寒い中どうやって聞いているんだろうと思いました。 朝まで繋いでゆくこと、これがアンカーの役目だと思いました。 便りが届いていて一つの手がかりでした。 (地震の前の便り) 確かに届いていますと、消印、住所、年齢、年齢、沢山言おうとしました。
ラジオは音だけで想像していただく世界です。 「暗闇の中で毛布にくるまって眠れない夜をお過ごしの皆さんどうぞ想像してください。」と言いました。 お便りにあるものを伝えていきました。 例えば押し花の貼ってある手紙、その花の様子だけを伝えました。 想像した時間だけ寒さを忘れてくれるだろうと思いました。 イラストの絵はがきには色があるので色を伝えるだけで、又形を伝える、そのほか富士山、風景、旅に行った時の話など、闇の世界で聞いている方も判って想像するだろうと思いました。 皆さんにひと時、放送と言う音の世界に生きて、つらいことを忘れて欲しいから言いました。 これが私の『ラジオ深夜便』の最後の放送ですと言って、5時に終わりました。 「きらめき歌謡ライブ」が放送出来ました。 歌謡曲、のど自慢が聞きたいという声を聴きました。 1年後BS衛星放送だけは大阪城ホールから震災チャリティーコンサートを和田アキ子さんと私の司会で放送しました。