宇多喜代子(俳人) ・いさかいのない日々を子どもたちに残したい
昭和10年山口県周南市生まれ。 俳句の雑誌「草苑」の編集長や現代俳句協会会長などを歴任するなど、現代俳句を代表する俳人の一人で多くの評伝や評論などでも俳句界をけん引してきました。 とりわけ過酷な戦場などで俳人たちがどのように戦争と向き合い、俳句を作ってきたかを克明に調べて後世に伝えようと研究を続けてきました。 又心の奥底に刻まれた幼いころの戦争体験から、子供たちには平和な日々を残してやりたいという思いが強いと言います。 俳句の魅力と共に、平和への強い思いを伺いました。
11月の立冬の日から冬になります。 障子に囲まれた部屋で冬を過ごしているので、「 亡き人の亡きこと思う障子かな」という私の句があります。 この歳になるとみんな先にあっちへ行っちゃうんですよ。 「 日短いつもふさがっている両手」 自画像です、いつも何かを持っています。
12月は何といっても12月8日の戦争開戦の日ですね。 祖父が職業軍人でラジオがありこのニュースを聞きました。 「戦闘状態に入れり」という言葉が今でも耳に残っています。 祖父は日露戦争に行きました。 父の戦争は日中戦争、太平洋戦争、我が家は戦争を過ごしてきています。 祖母が戦地の兵隊さんはご苦労しているので、8日は梅干だけのご飯でした。 終戦後、昭和30年ぐらいまで12月8日は梅干だけでした。
「八月の赤子はいまも宙を蹴る」 赤子が手足を上に向けて宙を蹴っているような形で死んでいるのを見ました。 中東戦争でのニュースでも黒焦げになった赤ちゃんが同じように亡くなっているのを見ています。 東日本大震災の時の赤ちゃんを亡くした人と話をすると手足を上に向けていたと言っていました。 手足をあげてお母さんに助けて欲しいんじゃないかと思いました。 赤ちゃんは足で蹴って話をするんです。
飛行機が100機ぐらい来て、焼夷弾がぱらぱらと落ちてきました。 我が家にも火がついて母が夏掛けの布団に水を掛けてそれを被って母と逃げていきました。 途中で亡くなっている人を見たし、1時間ぐらいの爆撃がありましたが、周南市だけで500人ぐらいの犠牲者が出ました。 燃料廠があったためやられて市街地も回ってきました。(7月27日) 火が付いたものが空から降ってきましたが、かろうじて免れました。 橋のたもとに一人残されて、母が必ず来るからと言って去っていきましたが、心細くいてその時に「永遠」という言葉を想って、俳句を作る時に用います。 親しくしていた或るお姉さんが亡くなった姿も見ました。 矢絣のモンペを着ていて、矢絣の着物を見ると体が硬直します。 母とは祖母と一緒にお風呂に入って心が癒されていったと思います。 今何があっても戦争よりはましだと思います。
俳句との出会いは戦後で昭和27,8年でした。 遠山麦浪さんからなんでもいいから目についたものを詠んでご覧と言われて、作りました。 料理も好きで栄養士さんになりたかったので武庫川学院女子短期大学家政学科へ行きました。 旬のものを食べるといいです。 旬は食べ物だけではないです。 鱧は夏の魚です。 土地土地にお魚のおいしい時期があります。 麦わらタコは麦が黄色くなった頃のタコがおいしい。 そういった言葉の暮らしの知恵があった。
第一句集『りらの木』 父が戦争で中国から帰ってきて、りらの花がきれいだったという話をして、そこから付けました。 2歳で出征して12歳の時に帰ってきました。
「父までの瓦礫を越えるりらの枝」 段々お父さんだと思えるようになりました。
片山桃史という人の俳句を目にして、戦地からの句が多かったんです。 30歳で戦場でなくなっています。 この人の句を集め始め『片山桃史集』を刊行しました。 「透明な紅茶軽快なるノック.」 片山桃史 「一斉に死者が雷雨を駆け上がる」 片山桃史 「屍らに天の喇叭が鳴りやまず」 片山桃史
段々歳を取ってきて孫が戦死したような感じになってきています。 私自身の体験があるからジッとしていられない。 たくさんの片山桃史が日本にいたと思います。
俳句は時代のもの、今生きている人のものですね。 風景とか時代とは無縁のものがありますが、それも大事だと思います。 俳句は私の血肉ですね。 俳句をやって退屈と生憎といういう事がない。 どんなことでも好きなことがあるという事が大事です。 日本のこの国土に森と水があって言葉が変わらないで欲しいと思っています。 戦争のない日々が何物にも代えがたいです。