杉本肇(水俣病語り部) ・【人権インタビュー】いま水俣病を語り継ぐということ
水俣病は熊本県南部の水俣市で最初に確認されました。 チッソ水俣工場が海に流した有機水銀が魚介類に取り込まれ、それを人間が長くたくさん食べることで中毒症を引き起こす公害病です。 今年で公式確認から65年となりますが、今もなお症状に苦しむ人達、患者として認定してもらいたいと訴える人たちが後を絶ちません。 杉本さんは60歳。 祖父母と両親が水俣病の認定患者でした。 ご自身も感覚障害などの症状があり、水俣病の被害者手帳を持っています。 幼いころから身近に患者を見つめ、向き合って来た自らの人生を今水俣病の語り部として多くの人に伝えています。
今日も目の前にある海でシラスを獲ってきました。 無添加で加工します。 祖父母と両親が水俣病の患者であり、食べ物は安全でなくてはいけないと心から感じていたので、こだわっています。 水俣の海は生活の一部ですし、大好きなところで、これを守りたいと生涯にわたって水俣に接していたいと思うような、そんな海です。 水俣湾はかつて汚染され、たくさんの生命が亡くなりました。 ここは水俣湾から少し離れているので毎日魚を捕るという日常です。 真の水俣を知っていただきたいと語り部をやっています。
小学校6年の時が家族が大変な時期でした。 5人兄弟でにぎやかに過ごしていました。 うちは網元で人が20,30人出入りしていました。 この茂道地区で症状が出たのは祖母が最初でした。 そこから我が家の苦しみが始まりました。 症状はろれつが回らなくて草履をはいてるのがわからないので、草履をなくしたりしていました。(感覚障害) 湿布薬が家にはたくさんあり漁師が貼っていて大変なんだろうぐらいにしか思っていませんでした。 小学校に行って両親が運動会などには来てくれるが走れない。 そのころから段々両親の身体が弱いことが判って来ました。 おじいさんが小学校の2年生の時に亡くなりショックでした。 母の具合が悪かったので、次は母が亡くなってしまうのではないかと考え心細くなりました。 3年生ぐらいから父も具合が悪くなり、周りには相談できないというのがこの水俣病にはあるんです。 水俣には加害者であるチッソも一緒にいるという事です。 子供も大人も水俣病に関しては何も言えない状況でした。 隠したいという思いが働き始めました。
先生にも言えないし、ストレスを溜めながら学校に通っていました。 小学校5年生の時に父は精神的ストレスで胃潰瘍になり、母は手に痛みがあったり足が腫れたりして、握力が4~5kgでした。 ごはんが入った茶碗が持てなくなりました。 二人が病院に入り子供たちで暮らすことになりました。 長男ですし、不安で夜眠れない時がありました。 水俣の魚が売れなくなってきた状況では漁師をあきらめるしかないと思うようになりました。 水俣の町が嫌になって出ていろいろ学びたいと思いました。
高校卒業後東京に就職しましたが、周りに出身地を隠していました。 目の前で水俣病の患者の物まねをされた時にはショックでした。 結婚しようと思った人が水俣の人だったら結婚するなと言われて破談になったという人もいました。 僕たちは田舎自慢が出来なかったです。 後になって親と一緒に海に行って漁をしたことを話すと羨ましがられるようなことでしたが。 32歳の時に水俣に戻る事になりましたが、もう一度漁師をやってみないかという両親からの手紙でした。 少年の頃の心が動きました。 家族でもう一回漁が出来たんです、それが一番良かったです。(平成5年) その後徐々に水俣病のことは語られるようになりました。 母が語り部になりましたが、なんでつらい話を人前でするのかと、賛成ではなかったです。
母が亡くなって、全国から800通ぐらいの手紙を頂いて、母から励まされたという内容の手紙が多かったです。 母が「国も県もチッソも許す。」という言葉を残しましたが、一番の母の思いというのは「人が人ととも思わない。」というのが一番つらかったことで、それが差別、いじめだったと思います。 もう私(母 栄子)で終わりにしたい、私は許すから、同じ失敗をもうしないでくれ、という願いが含まれていると思います。
母が亡くなって3か月後に語り部になりました。 小学校5年生の俺を救えるのではないかと思いました。 水俣の子供たちがこの町に生まれて良かったと思うようにしたいんです。 水俣市民が率先して水俣を伝えるという、そんな機運が高まっています。 水俣は公害との戦いなので、市民がどう戦って来たかという歴史が一番重要ではないかと思うし、原点だと思います。 水俣病の患者さんが一番つらかったことは差別だと母が言っていましたので、日本や世界に伝わってゆくようなメッセージを水俣から発信してゆきたい。