志穂美悦子(花活動家) ・【心に花を咲かせて】花も演技も全身でぶつかる
しばらく表舞台から姿を消していた志穂美さん、最近は花の世界で活躍しています。 何故日本女性初のアクションスターになったのか、又結婚できっぱり女優を辞めた理由、花で活動を始めたのはなぜなのかなど、伺いました。
結婚して女優を辞めて35年経ちました。 体形はあまり変わっていないです。 家にジムがあるので、そんな環境ではあります。 女優を辞めるつもりはなかったが、家庭を持つと半端ではなかったし、子供も授かって、仕事の声を掛けてもらったこともありましたが、差し置いて女優をやるというような感じではなかった。 自分でもやりたいと思っていた寅さんのマドンナ役が最後でした。 もともと運動するのが好きで、女優になりたくて、女性初のアクション女優となりました。 妙に出来るという自信がありました。 25,6歳になると肉体的にも大変だし、もう少しほかのものをやって見たいというような欲も出てきました。 昔は良かったとは思わないようにしています、今がいいと思っています。 哀しい、苦しいという事はインプットされますが、幸せだなと思う瞬間は刻み付けておかないと忘れて行きます。 そういったことを寝る前に反芻することが大事だと思います。
人前で花を生けさせてもらうようになったのは、7年前です。 お花を初めて作ってみたいと思ったのは2010年です。 2010年には暇な時間が出来て、或る人からお花を作ってみるサークルに行きませんかと,勧めてくれた方がいて、行って作ってみるとうまくできない。 吸水スポンジにさすだけですが、それがアートになって行くんです。 面白くて通うようになり自宅のテーブルに飾るようになりました。 自分で買ってきて創作をするようになりほぼ毎日やっていました。 写真に撮って残していきました。 2011年に東日本大震災があり、夫と共に支援活動をしていましたが、花の写真が大分集まっていたので、一冊の本にできないかなと思って、その売り上げを寄付したいと思い作品集を作り寄付しました。(1000点出来ていたのでそれから選んだ。) その本を薬師寺の住職さんたちが目にしてくださって、奈良の東院堂を飾ってみませんかという話が来ました。 被災地に花を飾ったというようなことも書いてあったので、会って話をしているうちに内容がどんどん膨らんでいって、私にはそんな技術も、スキルも、精神的なものもないのでと伝えましたが、「でも、これって仏の縁なんですよ。」と言われて涙が出て、それこそ清水の舞台から飛び降りる気持ちになりました。
まず薬師寺のことについて歴史のことから全部勉強して自分にできる事からやらせていただこうと思いました。 話があったのは2013年8月で、何回か通ってイメージを固めて行って、東院堂を見させてもらって2014年3月に花会式という式典の時に飾らせてもらいました。 四天王が聖観世音菩薩を囲っていて、四天王が囲っているところに青(青龍)、白(白虎)、赤(朱雀)、黒(玄武)とエリアごとにわけて行こうと思いました。 飾り付ける時間が1日半しかないので、東京でまず作りました。 ここで作り方が大きく変わりました。(幼稚園児が突然東大に行くような) 形のいい流木をいくつも使いました。 根っこの形が物凄く素晴らしい。 竹も組んでもらったり、10人ぐらい手伝ってもらって行いました。 花が発散するエネルギーがあると思います。 水を注いだり予備の花の世話があり、付きっ切りでした。 準備から始めて11日間、いい花行をさせてもらったと思います。 4600本ぐらい生けました。 最後の日に夜中の12時に撤収が完了して、お花を生けましたというお経が行われました。 翌朝お礼に行って、静かで何もなく元に戻ったお堂に入った時に涙がボロボロ出てきて感動がよみがえりました。 これからちゃんとこの道をやって行きなさい、と言われたような気がしました。
その献花のことでテレビの取材があったり、取り上げられるようになって、いろんな話を頂くようになりました。 夫(長渕剛)からは周りに完全を求めるところがあり、食事、家庭をきちんとやってほしいとは最初一緒になった時に言われました。 夫の母親が池坊の師範でもありお花が出来たのは縁なのかなあと思ったりします。 夫は墨絵をやったりそこに詩を書いたり、ライブのコンサートの画像を全部自分で作ってます。 小さいものから大きなものまで作品を作っています。 お花の集合体としての強さというものを表現していきたいと思います。 流木の持つエネルギーを表現したい。 生き切って行きたいと思っています。