林由未(人形作家) ・【私のアート交遊録】私のドキドキの作り方
林さんと人形との出会いは幼いころ祖父が作ってくれた手作りの人形です。 木くずや割りばしなどが人形に変わってゆく過程はまるで 魔法にかかっているようでとても感動したことを覚えていると言います。 大学時代から人形制作を始め、人形劇の本場チェコ芸術アカデミー人形劇学部舞台美術科学院を首席で終了、舞台人形美術科造形作家としてチェコや日本にとどまらず世界の劇場にその活躍の場を広げています。 多様な国籍の人々との共同プロジェクトでも活躍する林さんに人形劇やアートに掛ける思いについて伺います。
チェコもコロナ禍で一時期観光地のプラハなどでも閑散としていました。 感染率、死亡率も一時世界で一番高い時期がありましたが、最近は急激に減ってきて、今の日本と同じような現象になっています。 私は引きこもってする仕事なので普段と変わらないような生活状況でした。 今回来日したのは3年目になる大阪の阪急梅田本店で日本一大きいというクリスマスウインドウが7面(3×4mぐらい)ありますが、人形で表現してみようという事でこの3年間はいつもクリスマスのことを考えているような感じです。
私の人形はその時その場所で素材を合わせてゆく感じで、人形劇だったら、木彫りだと重たいから張り子にしようとか、スポンジにしようとか、何をどう表現したいかを先にして次に素材が来るといったところです。 チェコは人形劇大国で、私の恩師が人形劇に革命を起こしたような天才の人で、彼の元で勉強したいという思いがありチェコに行きました。 ナチスの占領下の時に人形劇の方は旅芸人が多かったので、田舎に行くとドイツ語を話さなくても大丈夫でチェコ語での上演を許されていた。 チェコ語が守られて、ナチスの占領が解けて社会主義国になって行くと思想の制限とかがあり、人形劇で代弁させるというような話になって行く。 人形劇は子供向けであると言うことで、自分たちの思いを押し込めて、大人にとって比喩してみるというようなことから、どんどん発展していきました。 各都市に凄い人形劇場があって切磋琢磨されて行きました。 国立の人形劇を学べる大学が世界で最初にできました。 少人数制で教授と1:1とか1:2で厳しい学校です。
とにかくやってみろ、行ってみろというような感じで育てられてきました。 チェコのプロジェクトに呼んでもらえるようなポジションになれたのがラッキーだったと思います。 自分ではチェコ語が思うように話せなかったので引いていたが、フランスの学生を見てこれではいけないと思って、伝える思いが弱いと感じて伝えるようにして行きました。 いい意味で性格が変わっていきました。
日劇ミュジックホールの支配人を祖父がしていました。 結構器用で自分で操り人形とか、仮面、獅子舞い、とかから発展して私の遊ぶ人形遊びの家とか、家具とか、どんどんつくて行ってくれました。 割りばしに粘土で木くずを固めてゆくことで段々顔になって行く、そのプロセスを見た時に凄く素敵だなあと思いました。 小学校3,4年ぐらい位から作りたくてやらせてもらいました。 日本でやって行きたいなあという思いがありますが、劇団に所属しているわけではないので、ディスプレーの仕事、絵本とかの仕事で、人形劇に興味を持ってもらえるようなきっかけになればいいかなと思っています。
日本の人形劇は特殊な形だなあと思います。 人形劇の世界が人形だけで綺麗にまとまっている。 チェコは人形も人も出てきていろんなことが起きる。 文楽に代表されるように一体化してしまっていて、文楽、人形浄瑠璃のような動きのできるものはなく、日本が誇る形だと思います。 ヨーロッパではそこまで動きにポイントは置かないで、話、ドラマティックなところ、演出とかが重い。 演目ごとに考えるので伝統が残りづらい作り方をします。 新しいことをすぐに取り入れることが多いです。
見る側へのコミュニケーション能力が大事だと思っています。 相手がドキッとするような好奇心を促すための何かが絶対必要だと思います。 相手をどこまで深く見れるかという事は有ります。 人形劇を作ってゆくのは人への興味だと思います。
子供たちに取って人形劇、絵本などが、将来への種になってもらえたらいいなあと思っています。 ものから命を感じることは素敵だなと思います。
「キングダム」良い武将が沢山出てくるので、お薦めの一点でもあります。