「学校時代のことを考えると、今でも寒々とした悪寒が走るほどである。
その頃の生徒や教師に対して、みな一人ひとりに復讐をしてやりたいほど、僕は皆から憎まれ虐められ仲間はずれにされ通してきた。
小学校から中学校にかけ学生時代の僕の過去は、今から考えてみて僕の生涯の中での最も呪わしく、陰鬱な時代であり、まさしく悪夢の追憶だった。
学校にいる時は教室の一番の隅に小さく隠れ、休業時間の時には誰も見えない運動場の隅に息を殺して隠れていた。」(萩原朔太郎)
頭木さんは20歳の時に難病潰瘍性大腸炎を発病し、13年間に渡る療養生活を送りました。
その悩み苦しんだ時期に心に染みた言葉を「絶望名言」として御自分で紹介していらしゃいます。
1886年11月1日生まれ、1942年に亡くなっています。(56歳)
萩原朔太郎はラジオ好きだったらしい。
39歳の時に東京に出て来る。(1925年)
日本で最初にラジオ放送がされたのが同年3月。
萩原朔太郎は新しいもの好きでラジオに夢中になる。
石川啄木、谷崎純一郎は同い歳。
カフカが生まれたのが1883年、ほぼ同年代。
萩原朔太郎は芥川龍之介と交流があった。
学校では辛い目に会っていた。
「僕は比較的良家に生まれ、子供の時に甘やかされて育ったために、他人との社交について自己を抑制することができないのである。
そのうえ、僕の風変わりな性格が小学生時代から仲間の子供と違っていたので、学校では一人だけのけ者にされ、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれていた。」
父親は東大の医学部を首席で卒業して前橋で病院を開いていた。
経済的に豊かだった。
温室育ちで、繊細で過敏になって行ってしまう。
朔太郎は中学で落第し、高校の受験でも失敗してしまう。
熊本の高校にはいるが翌年落第して、岡山に転校するが落第して、大学に入るが退学する。
もう一度大学にはいるが又退学する。
その後京大の試験を受けるが不合格、早稲田を受験しようとするが、ミスがあって駄目になってしまう。
結局そのまま家にいて詩を書きながら、マンドリンを弾くという事になってしまう。
「特に強迫観念が激しかった。
校門を出る時にいつも左足からでないと踏み出せなかった。
四ツ角を曲がるときにはいつも 3べんずつぐるぐる回った。
そんな馬鹿馬鹿しいつまらぬことが、僕には脅迫的な絶対命令だった。
だが、一番困ったのは意識の反対衝動に駆られることだった。
例えば町に行こうとして家を出るとき、逆に森へ行けと脅迫命令が起こってくる。
そうするといつの間にか僕の足はその命令を巡行して反対の森の方に行っているのである。」
一番困ったのは意識の反対衝動に駆られること、これは人間関係が難しい。
好きな友人でも「馬鹿野郎」と言ってしまったりする。
朔太郎はドストエフスキーが好きだった。
ドストエフスキーの登場人物が強迫性障害みたいな症状があり、自分が共感して好きになったと言う。
朔太郎は年齢を重ねて来ると、強迫性障害みたいな症状が少なくなってきて、生きるのが楽になったという。
しかし創作能力が衰えてきてしまう。
生きることはいつも辛くて毎日が試練を乗り越える連続であると、そうするとどうしてもいろんなことを考えなければいけない。
こんなにつらいのに何で生きて行かなければいけないのか、とかと言う事を考えないといけない。
さーっと生きられる人に比べてものは考える、試練を乗り越えなくてはいけないと言うことになると人間的な魅力が高まって来る。
そういうところが創作に繋がるのかと思います。
朔太郎は音楽が好きで最初音楽家になろうとしていた。
17歳で銀座の店に輸入された3つしかないマンドリンを購入して、本格的に勉強した。
29歳のころから前橋市でマンドリン倶楽部の演奏会を頻繁に開催、それが群馬交響楽団の礎になる。
マンドリンの独奏曲を作っている。
*「機(はた)織る乙女」 萩原朔太郎作曲
「食い物が全く尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。
かくして、たこは彼の身体全体を食いつくしてしまった。
何処もかしこも全て残るくまなく完全に。
けれどもたこは死ななかった。
彼が消えてしまった後ですらも、なおかつ永遠にそこに生きていた。
ある物凄い欠乏と不満をもった人の目に見えない動物が生きていた。」
(「死なない蛸」 短編)
僕(頭木弘樹)の場合は20歳でもうベットに寝たままだと言われ、どうなっていくんだろうと、満たされない思いだけが残っていた。
病院のベッドはいろんな人が使ってきて、亡くなった人も居ただろうし、治らなかった方もいるだろうし、ベッドに色んな人の思いが凄く残っているのではないかとその時に思いました。
「僕は初めて芸術というものの本当の意味を知ったような気がしました。
それは一般に世間の人が考えているようなものではなく、それよりもずっと恐るべきものです。
生存欲の本能から「助けてくれ」と絶叫する被殺害者の声のようなものです。
その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。
そして芸術の価値はその絶叫、真実の度合いの強弱によって定まるものと考えます。」
(北原白秋への手紙から引用)
とっても面白い考え方です。
「一番深い地獄にいる者ほど清らかな歌を歌う事が出来ます。
天使の歌だと思っているのは、実は彼等の歌なのです」 (カフカ)
同じ様なことを言っていると思います。 生きる辛さの中からとても生きられないという叫びですね。 それを発しているのが芸術で、さらに面白いのは芸術の価値はその絶叫、真実の度合いの強弱によって定まる、心からの激しい悲鳴であるほど優れた芸術であると言っているわけです。
「その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。」このことは大事で、芸術は悲鳴である、その悲鳴を聞かれると言うことが大事だと言っている。
「私が魂(こん)かぎり、生(せい)かぎり叫ぶ声を、多くの人は空耳にしか聞いてくれない。
私の頭の上を踏みつけて、この国の賢明な人達がこう言っている。
「詩人の寝言だ」。」
詩とか小説とか芸術とか必要としていない人がいるが、本当はおかしな話だと思う。
色んな現実の中から、一つの現実の典型的パターンを取りだしたのが物語とか詩だと思うので、それを意味無いと言って現実が好きということはよく判らない。
寝言かもしれないが寝言の何処が悪いと反論したい。
その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。
朔太郎は正直な人だと思います。
「詩はただ病める魂の所有者と、孤独者との寂しい慰めである」、と朔太郎は言っている。
「絶望名言」と同じだと思います。