岩渕宜輝(NPO法人理事) ・一人で始めた遺骨探しの51年
岩渕さんは1941年(昭和16年)生まれで今年77歳です。
岩渕さんが2歳の時に父親がニューギニアで戦死、戦死の知らせが届いたのは終戦の翌年、昭和21年の7月でした。
しかし父親の戦死の状況はさっぱり判りませんでした。
岩淵さんが父親への思いを強くしたのは小学校1年生の頃。
家族が疎開先から東京に戻るときも、長男だから一の関に残り墓を守れと、祖父母に引き取られて一人残ります。
高校卒業のころには父の戦死したニューギニアに行ってみたいと心に決めます。
父親の眠るニューギニアに行くにはどうすればよいのか、岩渕さんは高校卒業後上京し働きながらニューギニアに行く手段を模索します。
そして働きながら英語を学び貿易会社や航空会社など英語が身に付く仕事を転々とします。
苦学6年、東京オリンピックの翌年念願の航空会社に就職することができて、入社2年目1967年、長い間念願だった父の眠るニューギニアを訪れたることができたのです。
初めて現地を訪れた岩渕さんはなにを思い、その後どのような活動を続けたのか伺いました。
太平洋戦史館の前には田園地帯が広がっていて、2km先に中尊寺があります。
おびただしい戦時下の遺品が展示されています。
遺留品を展示して遺族の方に持ち帰ってもらいたいと思っています。
戦争の悲惨さを知って欲しいと思います。
父親は33歳と6カ月で亡くなり辛い思いをしました。
父親の記憶は全然ありません。(2歳の時父親は亡くなる)
父親がどんな所で亡くなったのか、一遍ニューギニアに行ってみたいと思いました。
1960年代のころは海外への渡航は簡単にはいけない状況でした。
航空会社に入ればひょっとするとタダでいけるのではないかと思ったりしました。
英語の勉強をしなければいけないと思って、給料の中から通うためのお金をなんとか捻出して、原宿のワシントンハイツへ行って生の英語を聞きました。
求人広告でハウスボーイを見付けて雇ってもらいました。
父親が亡くなった場所は後に判るが、キャセイ航空に務めた時代は何処で死んだか全くわからなかった。
昭和42年に「ラエ」というところに行った時に、神父さんに言われたのが、「貴方の立っている芝生の下に何百という日本の兵隊さんの屍が埋まったままですよ」と言われた時の衝撃は大変なものでした。
1978年(昭和53年)の時に遺骨を収容している写真などが展示されている。
政府が1975年を持って遺骨帰還運動をおおむね完了ということになった。
ブーゲンビル島のタンタリキという場所を掘ったらシャレコウベが沢山出てきました。
(野戦病院の跡だった)
100万を超える兵隊さんが未帰還で、やれるのに何故やらないのか、政府の怠慢としか言いようがないです。
日本とインドネシアの間に遺骨帰還の協力覚書が有るのですが、2015年9月に行って10月にはそのままゼロ帰還で返されました。
11月に遺骨帰還の協力覚書が失効してしまった。
再調印できるようなことをやってもらえればいいが、2018年4月なっても何にも進んでいない。
魂があるとするならば、ご飯茶わん、水筒など形のあるものに魂が宿っており、私はこういうものが残っているんですよ、と伝えたい。
現地では銃弾、手投げ弾などの解体などで腕を飛ばしたり、命を落としたという事を聞かされている中で、まだあちこちに散らばっているという事実を伝えたい。
色々な未処理の問題 次世代の子供達に先送りはしたくない。
戦争が終わって73年経ってもこの体たらく。
非戦をどうすればいいのか子供達と考えながらやっているのが現状です。
3,4年前までは先生が熱心に連れてきているが、ここ3,4年総合学習関係の訪問者が消えてしまいました。
事実を伝えて行くこと、語り部は必要だと思います。