2018年10月4日木曜日

保坂衣子(日中戦争兵士の娘)      ・父が残した424通の真実

保坂衣子(日中戦争兵士の娘)      ・父が残した424通の真実
今年77歳、10年前実家の蔵を整理している時に、偶然沢山の手紙の束を見付けます。
日中戦争の時、出兵した父が家族にあてた手紙でした。
保坂さんの父五味民啓(たみよし)さんは陸軍兵として召集され、昭和12年から3年間中国上海を中心に戦いました。
戦地からの手紙は実に424通、そこには戦場の凄惨な実態が克明に記されていました。
保坂さんは父の手紙を保存するだけでなく、県内各地に展示したり、手紙について講演を行ったりして、そこに記された戦争体験を父に替わって、次の世代に語り継ごうと活動しています。

手紙の紙の色は茶色になっていて、かなり年季を感じます。
4~5kg位はあります。
2008年9月(父が亡くなったのは9月ですが)、蔵を開けた時に見つけました。
戦地に行ったのは昭和12年、23歳でその後3年間に書いたものです。
出兵したその日から書かれています。
戦地から母、父の弟、祖母に宛てた手紙でしたが、戦争の生々しいことが書かれていまして本当にショックでした。
手紙の一部
「5日間、敵弾激しき為、後方から食料は来ず、弾は尽きる。
雨は降り続ける、惨憺たる地獄以上の生活が始まった。
空腹に耐えかねて食料を取りに行く戦友が一人二人とはじからやられた。
攻撃前進命令が来たり、どうする事も出来ず、壕を掘り掘り前進した。
空腹を隠して 一尺、二尺と掘って、一日に僅か15mしか前進しない日もあった。
倒れる戦友をかばう間もなく、自分もやれれるような悲壮な場面を展開してかろうじて第一番に突入を敢行した。・・・」
この後の文章も戦死した部隊の名前が次々と書かれていて、過酷な戦場の様子が描写されている。

私にとっては映画の世界の様でよく判りませんが、凄まじい中で生きていたんだなあと思いました。
上海の当時の治安、軍の規律の乱れなど、あまり知られていない戦場の実態も言及されている。
その一部
「暗殺団がいて危険、上海の夜を満喫していると、突然拳銃の響きと人の悲鳴が起こり、全く物凄い騒ぎです。
撃たれたのは日本人で世界の魔窟と言われる上海であれば、こんなテロ行為もスリルも何も恐ろしいことは無く、むしろ当然のことなのです。
戦場に来た兵隊の中でも殺人、強盗、傷害とよくもこんなに事件があると思うほど毎日逮捕されます。」

当時の報道も批判している。
敵は刃向かう勇気もなし、なりを潜めてただ蹂躙に任すのみと、華々しく報道は伝えているが、手紙では、
「大抵は新聞記者の付いて来る戦場は勝ち目のある場所です。
苦戦の場合の決死隊など数限り無くあります。
新聞で伝えるのはほんの一部分であると思えば間違いありません。」
離れているところから記事を書いて、勝った勝ったと送っているけれどもそれは嘘であるというふうに書いたところもあります。
最初は墨で消されたものがあったが、途中から自分の思いを沢山書かれていました。
最初は皆さんと同じように戦っていたようですが、途中から憲兵になってスパイの規律維持などをやっていたようですが、主にやっていたのは事務処理係をやっていたようでした。
手紙の検閲なども担当したので、こんなことを書いて大丈夫なのかなと思っている文章も幾つもあります。
でも相当リスクはあったと思います。
自分も生きて帰れないという思いもあったのではないかと思います。

兵士として相手を殺したこともある、その部分。
「毎日2,3人で付近の偵察を行い、怪しいものは銃殺や刺殺に処しています。
さんざん人殺しをした後なので、少し人間も変わっているし、顔つきは凄いでしょう、お笑いください。」
職務だったとしてもそう言うことがあったということは恐ろしい、戦争というものは本当に恐ろしい。
とても受け入れられなかった、父はとっても穏やかで怒鳴り声など一度も聞いたことも無く、父と戦争ということ自体が全く結びつかなくて、いまだ納得できていないところもあります。
私はこの手紙が出て来るまで、父が戦争に行ったということは知りませんでした。
私は父が戦争から帰ってから翌年に生まれました。(昭和16年5月)
父は戦争の話は一切しませんでした。

どんなに純朴な青年でもそういう世界に投げ出されると、自分が生きるか死ぬかで、そういう中で戦うしか無かったんでしょうね。
私は受け入れられない思いだったが、父はもっと忘れたかっただろうと思いました。
父は左大腿部貫通という大けがをして、戦争から帰って来て、途中から役場に勤めるようになりました。
父は文字を綺麗に書くと言うことで戸籍係になりました。
傷痕はあまり見せないようにしていました。(傷が有ったことは覚えているが)
15年に帰ってきて、16年に又太平洋戦争がはじまり、戸籍係として村の青年に赤紙を発行しなければいけなくて、戦争は厭だと心の中で思っているのに、自分の知り合いなどに対して戦争に駆り出さなければいけない立場ということが、凄く腹の中が煮えくりかえるように辛い立場だったと思います。
父は気が狂ったように泣いたという祖母の言葉が、この手紙を読んで理解できました。

父の弟、おじさんが突然現れた時に、異様な情景が目に焼き付いています。
叔父は東京で働いていましたが、東京に召集令状が来て、ルソン島に出兵していきましたがなんとか無事に帰ってきました。
帰って来たその日から田んぼの中をはいずりまわって、蛇、鼠、とかげ、みみず、虫とかを取ってきて、食事時になると手につかんで家の中に入ってきた姿は、私にとってとっても怖いおじさんというイメージがありました。
祖母が「戦争は終わったんだから、みんなと同じご飯を食べていいんだよ、ご飯をお食べ」とすすめるが、「仲間のみんなに申し訳なくて、飯なんか食えるか」と言って泣きながら畑の方に走ってゆく姿を何回か見ました。(私が5,6歳の頃)
物凄い飢餓状態で戦っていたんだと思いました。
生きて帰ってきても辛い思い出は付いて回ったと思います。
父は66歳でがんで亡くなりましたが、時々大きな声で叫んだという事を聞いたりしました。
戦争の事が脳裏から消えなかったんだと思います。
戦争は恐ろしい、絶対に有ってはいけないことだと思います。
戦争が有ったという事、歴史の真実を若い人達にも知っていただいて、そういうことが有った中で自分たちの命があると言うことに感謝しながら、生きて行かなければいけないん
じゃないかなと思います。

生きて帰ることの願いも書かれている。
「長い戦いの間に思うのは、功績とか戦功とかに捉われることは小さな問題です。
現在は命があると言うことが、一番の手柄であり有難いことです。」
昭和22年に選挙が有って、その時に若い人たちが担ぎ出されて村長になったりしたが、真っ先にしたのが、戦争の被災者の為の住宅の確保して生活ができるようにしたのが、一番先にした仕事だったような気がします。
生きるためにみんな一生懸命働いて、今の時代を作り上げてきた、というようなことを書いていますが、父は自分が人間らしく生きられるように、周りの人がそうなれるようにということはメッセージとして残しているような気がします。
自分が手紙を見付けて3カ月後に悪性リンパ腫と告げられて、12月になってはっきり悪性リンパ腫と言われ手術をして、抗がん剤と放射線を浴びて治療が始まったが、毎日死と向き合って、あとどうしたらいいかをずーっと思っていました。
命がけで書いてくれた父の手紙の内容を伝えて行くことが、私の生かされている意味かもしれないと受け取るようになりました。

先生のおっしゃるよりも遥かに長生きしています。(10年生きています。)
自分が生きていること自体奇跡の様に思って、自分の命のある限りはこれを伝えて行くことが、私が生かされている意味の様な気がします。
こういったことが有ったんだと言うことが、生かされている使命の様な気がして講演会などでお話をさせていただいています。
私の処に通って、女子大生が卒論に纏めて下さった人もいます。
同じ過ちを起こさないように、父の想いを伝えて行きたいと思ってお話をしています。