2018年10月11日木曜日

西脇義訓(指揮者・録音プロデューサー)  ・ホールが楽器 目指せ空間力

西脇義訓(指揮者・録音プロデューサー)  ・ホールが楽器 目指せ空間力
愛知県出身、70歳、小さいころから音楽に親しみ大学を卒業した後は、レコード会社に勤務し、営業や製作畑を歩きました。
50歳の時に独立し、現在もクラシック音楽の録音、CD製作に携わっています。
その一方で入社間もないころに聞いたドイツ、バイロイト祝祭劇場でのライブ録音のレコードが忘れなかった西脇さんは、2009年にようやくバイロイト祝祭音楽祭に行って、そのオーケストラの響きを体験、この響きこそ自分が理想とする響きであると確信し、ついに2013年、65歳の時にご自分のオーケストラを創設するに至りました。
響きを追求するために、今までの常識にとらわれない画期的なオーケストラ「デア・リング東京オーケストラ」です。
すでにCDを6枚発表し 、この夏初めて公開コンサートが開かれました。

8月に末にコンサートが行われました。
前代未聞画期的革命と言われ、指揮者から全てがお客様の方を向いていた。
立って演奏すると目線が下を向くので、上を向いて演奏しましょうということでそうしました。
ホールを楽器としてその楽器をいい状態で響かせる、空間力を発揮する為に半円形になってすることはやり易いが、空間を響かせるのに一番大事なのは聞きあう事なんです。
「デア・リング東京オーケストラ」では指揮者の方を向いていない。
一般的には指揮者を扇のかなめとして、半円状に広がる。
通常は指揮者の左から第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、チェロうしろにコントラバス、管楽器が弦楽器の後ろにいて、左奥位に打楽器がならぶ。
「デア・リング東京オーケストラ」では弦楽器、管楽器もばらばらでやっていて、チェロ以外は立ってやります。
メンデルスゾーンの時代は立って演奏していたという記録が残っています。
方向もどっちを向いてもいいと指揮者の方を向かなくてもいいと言ったら、向こう見てやっている人も何人かいました。
ボウイング(運弓法。弦楽器の運弓法(弓の使い方)。)をみんなと合わせるために神経を使うことも事実なんで、演奏として合っているかが一番大事なことなのでボウイングは自由にしてみようという考え方でやっています。

*メンデルスゾーン交響曲 第4番 「イタリア」

柔らかくて透明な響きが来て、バイロイトの響きを普通の舞台の上で、それに近い響きを作れるのではないかということで設立しました。(「デア・リング東京オーケストラ」)
核になる人が何人かいましたが芸大、桐朋学園とか卒業したての人に声を掛けました。
「デア・リング」の名称は、先進性、独創性、開拓者精神で世界を席巻したワーグナーの代表作「ニーベルングの指環」 Der Ring des Nibelungen からの連想で、「輪」や「和」にも通じる、このオーケストラの基本理念を示しています。
2013年にオーケストラを編成しました。
第一弾はブルックナーの交響曲第3番「ワグネル」を演奏して録音して世に出しました。
最初みんな疑問に思っていましたが演奏するに従って、この配置でやるのが弾きやすかったと言っていました。
奏者が自立して一人一人がやるということが、大事なことだと思うの空間力と自発ですね。
僕の役目はそういう方向付けをすることと、指揮者として大きな振りはしていないが遠くの人も、ちょっとした動きに物凄く反応してくれました。

幼稚園の入園式の時にスキップして出てきて、母は音楽が好きなのかもしれないということで、母が木琴の先生を探して6年までレッスンに通いました。
小学校5,6年は音楽の先生でアンサンブルなどをやっていました。
中学校はレコードを一杯聞きました。
ヴェートーベンの全集が出て、親に買ってほしいと泣きついて買ってもらって毎日のように聞いていました。
弦楽器を始めたいと思ったが、ヴァイオリンはもう手遅れだと思って、高校に入った時にオーケストラを作ろうと思って、日比谷高校、慶応高校、麻布高校とか一流高校の処にはオーケストラがあり、うちの学校が一流になる為にはオーケストラがなければならないという記事(校内新聞)を書いて、チェロを始めました。
3年の時に受験間際に名古屋私立大学の管弦楽団が演奏をするので、チェロで出なさいと先生から言われて、受験そっちのけで演奏しました。
大学に入ったらオーケストラをやりたいと、慶應義塾ワグネルソサィエティーがあり上京しました。
高校には弟の時代にはオーケストラが出来、今や素晴らしいオーケストラが出来ました。

就職にあたって名古屋の銀行に試験は通ったが、悶々としていました。
レコード会社の新聞広告で募集があり、たまたま最後の一人として受かりました。
営業を希望し親とも喧嘩した名古屋に戻りました。
オーケストラでチェロが足りないということで呼ばれたが、下手なのでちょいと言ったらお前がやれということになり、ソリストと指揮者をやりながらどっぷりと入ってしまいました。
東京の本社に戻りクラシック部に入ることになりました。
その後独立しました。
二人で自分たちの納得のいく録音、音楽制作、CD制作をやっていこうと決めました。(50歳の時)
青木十良さんに会いに行く機会が出来ました。
バッハの無伴奏6番からやりたいと言うことだった。(一番難しい曲)
演奏する空間が大事だと言うことで、日本で会場を探したいと言うことだった。
松戸の美術館に行って実際に弾いてみたら響きが良くて、6番を演奏してもらって録音をしました。
空間の大切さを身にしみて判りました。
*バッハの無伴奏組曲第6番

青木さんから「50,60で頑張れば70,80で花が咲く」とおっしゃったんです、それが胸にギンと来て、頑張らなくて行けないと思いました。(50歳過ぎのころ)
70歳になった時にオーケストラの演奏会を開くことができました。
オーケストラがどうしたらいい状態になるか、オーケストラの人達が幸せになるような演奏を出来ればオーケストラの人達が幸せになるし、聞いている人たちも幸せになるので、どうしたら幸せな演奏ができるか、幸せな音楽にみんな一緒に協力できるか考えていました。
空間力があれば幸せな状態で演奏出来て、幸せな状態で聞けるのではないかというそういうふうに思っています。
日本人でしかない様な気配を感じる、呼吸を感じるそういうのは、日本人独特な感性なので、それをオーケストラで取り入れて日本独特の響きを、世界に出していく時期に来ているのではないかと思います。
*ヴェートーベン交響曲第7番二楽章