能楽師狂言方 大藏基誠
今年36歳になりました。
新内節は江戸浄瑠璃のカテゴリーの一つ。
今から260年前くらい前に京都で一中節の音曲が出来て、その一中節が豊後節に別れてゆくが、それが江戸に下って行き大変流行する。
流行し過ぎて他流、幕府から迫害を受けてしまって、江戸で演奏することができなくなってしまった。
男性なのに女性のような髪形をしたり、うちかけを長く引きづりながら歩いたりして、お客さんを目でも音楽でも惹きつけて行って、それが風紀を乱すことになり、音楽ともに禁止になってしまった。
音楽は残したいと思って3人の弟子が豊後節の音楽に替わるものを考え出した。
それが常磐津節、富本節、新内節だった。
富本節から今の清元節が生まれて、常磐津節、清元節、新内節がそれぞれ歌舞伎に入った。
創設した人が使ってた特徴的な声色、歌い方だったりするので、それが一つのスタイルになる。
東京都1982年生まれ、36歳、父親が人間国宝の新内仲三郎。
稽古は6歳から始め、東京藝術大学音楽学部邦楽科に入学。
平成17年3月 東京藝術大学音楽学部邦楽科卒業
三味線音楽について研究、新内の演奏のほか、歌舞伎の音楽や舞台音楽の作曲なども手掛け多彩な活動をする。
笛、琴、尺八、チェロ、ビオラなどを使って、お芝居の中の音楽の全体的な作曲をする活動をしてきています。大学では常磐津節が一番新内に近いと思って、専門的な三味線をやりつつ色んな研究をしていました。
新内節は最初歌舞伎音楽とかに入っていたが、そこから抜け出して演奏だけを聞かせようという音楽の流れがあります。
新内節は映像が浮かんでくるように演奏することが一番魅力的です。
*「明烏夢泡雪」(あけがらすゆめのあわゆき)
新吉原・山名屋の客、春日屋の時次郎は、遊女の浦里と相思相愛の仲となる。
そのうちお金が払えなくなり心中すると言うことなる。
今日の演奏場面は、二人が春の雨に起こされてこれからどうしようかとしている所。
文化文政のころに新内流しが流行して、三味線を歩きながら弾き流して、お客さんに聞いていただいて、良かったらお座敷に上がって演奏するスタイルが当時はやりました。
新内流しがはやって、新内というと新内流しが有名になってしまった。
三味線に枷(かせ)と言う道具を付けて音の高さを付けて、低い三味線と高い三味線で高低の差を付けて合奏させる手法があり、高いパートが上調子、で二人一組で歩く。
週刊誌ふうに実際にあった話などを弾き語りした。
「明烏夢泡雪」も実際にあった話ですが、幕府の目から逃れるために、夢であったとフィクションに仕立ている。
「蘭蝶」は不倫に関する話です。
流行ったので芸を磨かなくてもお金を稼げたので、隆盛は極めたが芸は荒れてしまったという一面はあります。
三味線をもったのは6歳の6月6日でした。
最初祖母に教えてもらいました。
伊豆の旅館に行った時に入口が竹やぶになっていて、笹の揺れると音、木漏れ日とかと、流れていた三味線の音楽と子供ながら鳥肌が立ちました。(4,5歳の時)
それは父親が演奏していたBGMだった。(後で判った事)
子供用の三味線を作ってもらいました。
子供のころはバスケットボールをやっていましたので、左の弦を使う指だけは突き指をしなくて、なんとかできました。
小学校から高校までバスケットをやっていました。
弁護士の道に進みたいと思っていたが、三味線をやっていこうかなと言ったら、先生が三味線をやって何になるのと言われてしまいました。
芸大に受かって見返してやろうと思いました。
昨年4月に家元を継ぐことになりました。
日本の音 邦楽はそぎ落とされてシンプルな音になる、しかし壮大な世界がそこにあったり、一つの音で表現しなければいけなかったりするが、一つの音で世界観を広げて行くというのが日本の音、邦楽の本質であり、本来の魅力だと思っています。
作曲はどんどんやっていきたい。
視覚的なものと音楽もやりつつ、新内のシンプルなもので世界を広がらせてゆく表現を追求して行きたい。
それと逆のものも両方やって両方のいいところを判っておきたい。
*「蘭蝶」
蘭蝶は男芸者で、女房のお宮がいるが、遊女此糸に通ってしまう。
蘭蝶,その妻お宮,遊女此糸の三角関係、その後蘭蝶と遊女此糸は心中してしまう。
今日は蘭蝶,その妻お宮の話の場面。