田部井政伸(登山愛好家) ・我が妻、田部井淳子の遺したもの
女性として世界で初めて世界最高峰のエベレストに登頂した登山家の田部井淳子さんがなくなって今月で2年が経ちます。
亨年77歳でした。
夫の政伸さんも世界の山に多くの登山実績を残したクライマーです。
妻を山に送りだし留守番をしながらサポートを続けた政伸さん、淳子さんが残した言葉や、イベント、生活スタイルについて田部井政伸さんに伺いました。
命日に多くの登山家が埼玉県の西部の日和田山(305m)の山登りに集まります。
以前は私とかみさんがリハリビで行っていました。
亡くなってから私一人で行っていましたが、或る日命日に仲間も一緒に行こうと言うことで行くことになり、川越のNHKの登山教室もやっていてその人達も一緒に、山に行くようになりました。
最近は、僕が行っても来ている方が半分ぐらい判りません。
日和田山は低いが変化に富んだバランスが取れた山です。
我々は登山愛好家で趣味でやっています。
妻は女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功したことで知られる。
世界76カ国の最高峰を制覇している。
小学4年の時に那須の茶臼岳に登ったことが、登山家への意識の芽生えになったと言われている。
私はロッククライミングが多かったです。
グランドジョラス北壁、マッターホルンの北壁を1シーズンで踏破、世界に多くの登山実勢があります。
世界三大北壁を1シーズンでやったことがないが、3つを昇ろうと挑戦しようとしました。
しかしアイガー北壁は登れず、この二つしか登れませんでした。(1968年)
5月の登山で妻とは知り合いました。
そのうちに会う時間が多くなりました。
1964年に結婚しました。
その頃は男性は会社を辞めるか、山をやるかというようなことで仕事をしていました。
主婦は時間がいっぱいある関係で妻は山へ行く時間が多くなりました。(結婚当初から)
家庭との両立もしっかりやりました。
エベレストの時には娘が3歳になっていました。
その時には妻の姉の処に僕と娘が居候をしました。
連絡はエアーメールで10から15日かかります。
メールランナーがいて走って行ってベースキャンプまで届けます。
お互い信頼して覚悟を決めていました。
7から8割が山がベースでやってきました。
私と一緒に子供も自然の山の中で過ごしたりして来ました。
イベントが好きで色々なことをやってきました。
東日本大震災の時は大人の被災者のハイキングをやっていました。
高校生に自分のおこずかいで参加して行ける計画をしようということで、磐梯山にとの話もあったが、富士山に登ろうという計画を立てました。
10年間で1000人という計画だったが、今は1000人を目標にして、今年7年目でトータル575名が登りました。(今年は96名)
後4年ぐらいかかると思います。
心配な親もいるので説明会をやって、以前登山した高校生だった人達もその体験談を話して、1000人までの目標へのサポートをしてくれています。
その経験を社会人になってから、社会に応援できるきっかけになればいいと思っています。
妻のやるべきことが段々形になってきたと喜んでいます。
一人7から8万円かかりますので、震災で困った生活をしているので一人3000円で参加してもらって、ザックとか靴などを無償で貸し出ししています。
本当に感動しますが、全国から郵便局で毎月1000円送ってきてくれます。
コメント欄があり、励ましの言葉とか色々書いて来て下さいます。
使い方も厳しく妻がやっていました。
私の講演とかイベントなどで募金箱を置いて募金をして貰っています。
富士登山という目的がはっきりしているので募金するのもいいと言って下さいます。
息子が今プロジェクトのリーダーをやっています。
企業や、国、自治体の財団等との交渉などもやってくれています。
10月20日に日和田山登山の計画があります。
抹茶が妻が大好きだったので、野だてをやろうということで準備を進めています。
妻は病気になってベッドに入っていても常に山の事が頭にあり、酸素吸入をするようになって、その量が0.5リットルということだったが、本人がエベレストに登った時の睡眠の時に使った量と同じだと言っていました。
亡くなる3日前に3リットルすることになり、これはエベレスト最終キャンプから頂上に向かう時の酸素の量と同じだと言っていました。
「病気は誰でもなるが、病人にはならない」と言う事を常に言っていました。
死ぬまで山が8割ぐらいの人でした。