2018年10月5日金曜日

島袋清徳(伊江島元村長)        ・基地とひきかえの村おこし

島袋清徳(伊江島元村長)        ・基地とひきかえの村おこし
先日の沖縄県知事選挙でも争点の一つになったのが、アメリカ軍基地の問題。
沖縄で基地闘争の原点の島と呼ばれるのが伊江島です。
戦後伊江島ではアメリカ軍による土地の強制接収に対し、住民による激しい反対運動が行われました。
しかし、平成元年に村長に就任した島袋さんは島の振興策などと引き換えに、新たな戦闘機の訓練所の受け入れを決断します。
現在80歳、戦争体験もある島袋さんは、何故その時基地を受け入れたのか、今も基地問題に揺れ続ける沖縄でその決断をどう振り返るのか、伺いました。

伊江島は沖縄本島の北部の沖合にあり、周囲20km余り、人口4500人ほどで、面積の1/3が軍用地になっている。
戦争中に日本の基地になり、戦後米軍基地になり振り回されてきました。
よく忍耐強く来たなという思いはあります。
国民学校に入学して、机に座ったという記憶はないです。
竹槍を突く訓練をやるとかといった記憶しか無いです。
第二次世界大戦が勃発してから、沖縄防衛の砦として小さな伊江島に2つの飛行場を建設して、それが有ったため、米軍の攻撃ターゲットになってしまいました。
空襲があり強制疎開となり、夜中に島の東の海岸から沖縄本島の浜元というところに行きました。
1945年4月16日に伊江島にアメリカ人が上陸、3000人が残っていたが、6日間の戦争で半分の1500人が亡くなる。
残りの1500人は島外の収容所に移される。
見つかって私も収容所に移される。
大きな火災があり私の家も焼かれてしまいました。
当時のことは言い尽くしがたいです。
終戦後2年が経ってようやく伊江島に帰ることが許される。
目にしたのは故郷ではなくて、廃墟と化した島で、米軍の大きな基地と錯覚するほど、米軍車両が往来していました。
小学校で集団生活が4,5カ月続いて、その後自分の土地に掘立小屋を建てたり畑を開墾したりしました。

そんな時、港のLCT事故に直面しました。
LCT=輸送船 1948年にアメリカ軍の弾薬輸送船が伊江島の港で爆発する。
民家の台所で水を飲もうとした時に、耳を引き裂かれるような爆音があり、真っ黒くなり視界がなくなりました。
20秒位は真っ暗闇で、あまり意識も無いまま死体を飛び越えたりして家に帰りました。
家に帰ったら母がいましたが、父はいませんでした。
探しに行ったが白い海岸が真っ黒になっていました。
顔は判別できなくて右手のひじから先が無い死体があり、父だと思いました。
(以前に父は右腕を無くしていたから。)
ただぼんやりと立ちすくんでいるだけでした。
後ろから「生きていたか」と声を掛けられて、振り向いたら父でした。
この事故で100人以上が亡くなり、70名位が負傷しました。
他の地域に比べて戦後は遅かった。

1950年代に入ってアメリカ軍が伊江島の土地の強制接収を行う。
農家の多くが軍用地になり、一時期島の面積の68%が軍用地になる。

通信施設を強化するために一つの集落をつぶすことになる。(「強制立ち退き)
伊江島の土地を守る会があり、メンバーがハンガーストライキを断行した。
当時私は役場に勤めていて、財政課長をやっていました。
農業所得が厳しかった。
各家庭は遺族で遺族年金が29億円あり、強制接収した土地に対して5億円支払われていて、伊江島は豊かであるというふうに誤解されていた、生活には不自由はしなかった。
その後助役を経て1989年に村長に就任する。
基地が本当に無くなって、平和な古き良き時代の心豊かな地域作りをしたいなあという思いがありました。
村長就任後翌月に、ハリヤーと呼ばれる戦闘機の訓練場を建設する問題が持ち上がる。
国頭村(くにがみそん)に最初予定されていたが、地元の猛烈な反対があり向こうでは出来なくなった。
騒音があり危険な飛行機だと言うことだった。

那覇局の幹部が来て、日米安保に関わることで重要な基地だと言うことで、是非なんとかして欲しいということだった。
島の現状をかんがえて、現実を考えると、遺族年金、土地使用料も段々少なくなってきていて、生きるための施設が絶対必要だと、病院が無い、島に勤められない、水に悩まされれてきた(豊作、凶作)、そう言ったこと、将来の事などもを考えていました。
議長と二人で会って、指定している場所では危険性があり、騒音などでとても無理だと言う事で絶対反対だと話しました。
翌日、二人司令官が来て言うとおりに場所を移すということで、政府との条件闘争に入ったわけです。
島の将来の事を考えて、訓練場の場所を集落から離れた所に移す、島の振興策を条件に容認しました。
はっきり言って、個人的には反対ですよ。

自分の中で振り回されてきた現実、葛藤しながら何とも言えない心境でした。
綺麗事では絶対この島は救えない、という思いが有ってそういう決断に至りました。
「あんたは助役から村長になって、助役の時は優秀だったが、村長になってぼろがでてもうやめた方がいい」と言われたり、「ロッキード事件よりももっと賄賂を貰ったという噂があるが、今日、表明しなさい」と言われたりしました。
決断が良かったか悪かったかどうか、30年間の過程と、現在を直視して判断を村民にゆだねると、そういうふうに思っています。
伊江島の農業が盛んになり、観光客も増えたが、島の1/3は基地になっており、トラブルも起きているが、基地が有る所以であるが、村民を守る立場からすると、私は決断せざるをえなかったし、他の人でもそう決断せざるを得なかったのではないかと思う。
村長を退任して10年以上になる。
充実した人生とは思わないが、耐えてよくやってきたなとは思います。
戦争とはどんな事があってもやってはいけない事だが、戦争に加担しているのではないかと言われたり、予算を多く貰うためにと、ただこの一言の言葉でかたずけられてしまう。
それが残念でたまらない。
基地を容認し、基地関連の予算で色んな島の繁栄をもたらしてきているが、村民は満足はしていない。
真の願いは心豊かな平和な村を望んでる。
島をよりよくするための手段であるということで、県全体もそうなっていければなあと思います。