2018年10月30日火曜日

佐藤康光(棋士)             ・【母を語る】

佐藤康光(棋士)             ・【母を語る】
京都府出身、6歳で将棋に興味を持ち6年生で小学生将棋名人戦に出場して3位人ります。
1982年中学1年の冬に関西将励会に入会、間もなく父親の転勤で東京に転居、関東奨励会に移籍、1987年に4段プロデユー、1993年6段の時に当時の羽生 善治竜王を破り竜王位につき初タイトルを獲得します。
1998年56期名人戦で谷川浩司名人に挑戦し、名人位を獲得、9段となります。
2017年2月谷川9段の後を継いで、日本将棋連盟の会長となりました。
子供のころは母親に勧められて様々な習い事を経験してと言う佐藤さんですが、友達と遊んだ将棋でおもしろさに目覚めてゆきます。

日本将棋連盟の会長になって1年半になります。(48歳)
棋士としてはベテランの部類に入ります。
藤井聡太7段、国民栄誉賞を受賞した羽生善治竜王、最近脱サラ棋士・瀬川晶司五段の映画、「泣き虫しょったんの奇跡」が話題になり、将棋が注目されてきています。
藤井聡太7段はデビュー以来29連勝を達成とか、羽生永世7冠を達成とか、11人
で争う戦いで6人が同じ勝率で名人挑戦を争ったとか、色々な事が立て続けに起こっています。
若手棋士がタイトルを取る時代になりつつあります。
小学校1年生の時に友達が将棋盤を持ってきて興味を持ちました。
4歳でヴァイオリンも習い始めました。(母の勧め)
3人兄弟で私は長男で弟(歌舞伎をやっている。)、妹がいます。
ヴァイオリンは8年ぐらいやっていました。
将棋は色んな面白さがあります。
勝負、自分なりに表現できる、1対1のゲーム、1局1局のドラマがある、そういった面白さに惹かれて行きました。
段々やっているうちにプロ棋士を目指すようになりました。

母は何事にも積極的に習わせました。
弟とはいっとき将棋を指していた時期はあります。
京都府八幡市で生まれましたが、竹が有名でエジソンが八幡の竹を使って電球に灯を点けたと言うことは地元で習った記憶はあります。
小学校6年生で小学生将棋名人戦に出場し準決勝でNHKに父親と来た覚えがあります。
中学2年で東京に来ました。
初めてのタイトル戦で戦ったのが谷川先生でした。
小学生の頃、大会に行くときは父親に連れて行ってもらいました。
一生の仕事を小学生、中学生の時に選ぶと言うことは、母親も色々大変だったのではないかと思います。(背中を押してくれた。)
口には出さなかったが、母親は結構心配していたと思います。
算盤とかも習いましたが、中学の時には学習塾にも行っていました。(高校受験の為)
プロの対局の記録係を務めるため中学校を頻繁に休んでいたことから、「学校やすみつ君」とからかわれてました。

千駄ヶ谷の将棋会館に近い高校と言うことで國學院高校に進学しました。
17歳デプロになる。(高校2年の時)
正確に早く読むと言われていました。(緻密流と言われたりしました。)
将棋は様々な要素が必要で、計算だけということはないです。
長時間いかに坐っていられるか、持久力が必要になります。
一局で2kg痩せてしまうような対局もあります。
将棋、歌舞伎も江戸時代初期で栄え始めたと言う共通項はある。
将棋も世襲制の時期があったが、80年ぐらい前から実力制に移行しました。
初めてタイトルを取ったのが24歳で竜王位、28歳が名人位、そのほかにも色々タイトルは取りましたが、王将戦で最初3連敗してその後3連勝して、最後の試合で負けてしまったと言うこともありました。(3連敗後に4連勝すれば初ということだったが)
プロになってから32年目になりますが、子供の時と変わらず情熱を持って将棋に接すれると言う事を持ち続けられると言うことは、将棋の世界に入って良かったと思います。
子供のころは負けると良く泣きましたが、将棋が嫌いになると言う訳ではなくて、自分が厭になるという意味合いが強いですね、自分との闘いですね。