2018年10月8日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】大石誠之助

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・【近代日本150年 明治の群像】大石誠之助
大逆事件~
講談師 神田 蘭

太逆事件で死刑になった大石誠之助
2018年1月に人権思想や平和思想の基礎を築いた人物として、新宮市の名誉市民に認定している。
講談による紹介。
1867年和歌山県新宮市生まれ、明治44年に1月24日に亡くなっている。
京都の同志社英学校英語普通科中退後、神田共立学校で英語を学び中退。
1891年6月渡米し、ワシントン州ワラワラ市のセントポーロ中学校入学。
1892年オレゴン州立大学医科に入学、1895年卒業。
同年4月から7月までモントリオール大学で外科学を学び、10月に帰国する。
翌1896年新宮町で医院を開業。
3年後、1899年伝染病研究のためシンガポールを経てインドのムンバイ大学に留学。
インドへの留学が彼に大きな影響を与えました。

カースト制の実態を知り、社会主義の思想に目覚める。
帰国した大石は又病院を開業する。
裕福な患者からは医療費を頂き、貧し人からは無償で行う。
「太平洋食堂」(レストラン)も開き、洋食の普及、西洋の合理的な生活の普及にも尽力する。
都々逸(どどいつ)についても宗匠の地位まで上り詰め、都々逸の普及にも尽力する。
社会問題に関するエッセー、論評を発表し、自由、平等、平和を唱え、活発な言論活動を展開して行く。
その中で堺利彦幸徳秋水と交流し彼等の活動資金の援助をしていた。
明治43年に大逆事件が発覚、共同謀議の罪で大石も処刑されてしまった。
大逆事件とは何だったのか、彼の人生はまだまだわからないことだらけです。

郷土愛が強くて上方志向は感じられないし、いい人だったんだろうなあと思います。
長兄大石余平の長男は西村伊作
アメリカではアルバイトとしてコックをやっていた関係でレストランも開いた。
母方の西村家は奈良県一帯の山林王だった。
農地解放では山林は除外されていて、後々まで金持だった。
南紀は温暖で解放感を感じる。
和歌山県は高知県と似ている所がある。
当時の文化人に共通するのはキリスト教です、自由、平等に親しむと言う事。
明治32年(1899年)伝染病研究のためシンガポールを経てインドのムンバイ大学に留学、カースト制の実態を知り、社会主義の思想に目覚める。
インドのスタール奏者はバラモンに所属していて一番上の階級、観客に頭を下げると言うことはない。(今は違うが)
和歌山では社会主義として新宮、田辺が拠点となる。
田辺には社会主義を推進する人たちが集まっていたが、その一人が大逆事件に関わってくる菅野スガ、彼女と結婚する荒畑寒村らであった。

大逆事件、当時の皇族に対する謀反とか皇族を否定するようなこと。
大逆事件と認定されているのが4つあるが、その中でも一番規模が大きくて大逆事件と言った時に、幸徳事件(明治43年、45年)、大石誠之助 が命を落とすことになる。
虎ノ門事件、朴烈事件、桜田門事件などがある。
明治天皇を爆弾で吹っ飛ばしてしまえと言うような、思い。
何処まで具体的な計画があったのか、明らかにならない。
綿密な爆殺計画を立てたようにはとても思えない。
官憲が動いて、これを契機として反政府を標榜している奴らをみんな捕まえてしまえということになったらしい。
一番標的にしていたのが幸徳秋水であった。
宮下太吉、新村忠雄等がいるが、そこに菅野スガが関わっていて、その愛人が幸徳秋水であった。
濡れ衣であった可能性は高い。
平成13年高知県中村市の市議会が「彼は無実であった」ということで幸徳秋水を検証する決議を全会一致で議決している。
明治は怖さ、暗さを持っていた時代でもあった。
大杉栄、荒畑寒村、堺利彦等は獄中にいたために助かった。

荒畑寒村が獄中にいるときの菅野スガは幸徳秋水(妻がいた)と愛人関係になり離婚を迫っている。(荒畑寒村は幸徳秋水の文書に心酔していて、それまで幸徳秋水を心の師と思っていた。)
仲間内でも相当評判が悪かった。
明治の時代は女性は社会進出が抑え込まれていたが、進歩的な自由を求める女性にとって一番の武器になるのは恋愛だったと思う。
恋愛は男の人と平等に渡りあえるので、そこは責められないのかなあと思うが。
思想で自由恋愛している人もいるかもしれないが、元々持っている体質の人もいるのかもしれない。
市川房江さんはそういった類は無く立派な人だと思います。
大石誠之助さんにとっては、いい迷惑だった様な気がします。
大石誠之助さんは友達になりたいと言うような人だと思います。