2018年10月24日水曜日

柳家花緑(噺家)             ・噺家でよかった

柳家花緑(噺家)             ・噺家でよかった
人間国宝で5代目柳家小さんさんの孫で22歳で真打ちになった柳家花禄さんですが、9歳から落語を始めて中学卒業後、おじいさんの小さん師匠に弟子入りして、戦後最年少の22歳で真打ちに昇進しました。
現在弟子が11人、古典も新作もこなします。
また俳優としても舞台、ドラマに出演して、幅広い活躍をしています。
花緑さんは昨年「花緑の幸せ入門」という本を出版して、御自身の発達障害を告白して話題になりました。

落語家は世襲制ではなくて、2世の方が少ない。
800~900人いる中で、東西合わせて2世は30人いないと思います。
持ちネタは190幾つといった感じです。
落語家の記憶力は普通の人と変わらないので、やっていない話はどんどん忘れて行きます。
20~30席位が頭にあって放っておくと、どんどん消えて行くような印象です。
稽古をして思いだし稽古をしています。
覚えること自体楽にはならない。
『落語家はなぜ噺を忘れないのか』という本を出しました。
どんな気持ちで上がっているのかとか、祖父、古今亭 志ん朝師匠のことなど書かせてもらっています。
本当に言って下さるのがどれほどありがたいことか、1つを発見するのに10年掛かるかもしれないところを、違うよと気付かないところを言って下さったときに本当に有難いと思います。

洋服で椅子に座ってやることもやっていて、私だけです。(新作落語だけ)
大事なのはちゃんと演じる演技であって、もし批判されることがあるのであれば、僕の演技が問題であると思っています。
1971年8月2日生まれ、母親の父が小さん師匠、兄がバレエダンサー。
兄は腰を痛めて教えています。
母は元々バレエが好きだったので影響で兄は10歳からバレエにうちこみました。
私もいっとき兄とバレエをした時期がありました。
9歳から落語をやるようになりました。
最初叔父の6代目柳家小さんから落語を習いました。
部活をやりたければ、落語家にはならない、落語家になるならば部活をしないで、日本舞踊、三味線など落語に役立つことをやりなさいと母から言われて、僕は落語を9歳からやってきたので落語家になることを決めました。(小学校6年で母に宣言)
中学3年の時に高校に行かなくていいのかと母から言われましたが、落語家の道に入ってきました。
落語家は厳しい世界だと思います。
1987年正式入門しました。
1989年に「小緑」で二つ目、1994年真打昇進、「花緑」に改名。(22歳)
当時かなりプレッシャーはありました。
かなり自信を持てるようになった時には30歳になっていました。
平成9年度国立演芸場花形演芸大賞(1998年)
彩の国落語大賞(2000年)
平成12年度国立演芸場花形演芸大賞(2001年)

小さい時は勉強が出来ずに、多弁な子でした。
去年発売の「花緑の幸せ入門」で子供時代の学習障害を公表。
正直に自分のことを書きたかった。
子さんの孫ということが自分の中に不満の様にあって、色眼鏡で見られているような思いが強かった。
本当の自分を見て好きとか嫌いとかを言ってほしいという欲求があった様で、自分をさらけ出したいと思った。
学習障害についてネットで調べてみると、全く自分のことだという思いがあり、今まで感じたことのない安らぎを得ました。
脳の病気だと言うことでストレスがたまったり、疲れやすいということも判りました。
治る病気ではない、生涯治らない。
空気が読めないということもある。
落語家になって僕は幸せです。
小学生からテストで0点を取って、ついていけなくなって中学ではチンプンカンプンでした。
字が読み書きができない、テストの問題すら読めない。

ナレーションなどはルビを振っています。
「芝浜」をやった時にサイン会をやったが、その時に相手の名前を書いて貰って、それを見て書いて渡していたが、聞いた「芝浜」聞いたが良かったから「芝浜」と書いてほしいと言われて、先に「浜」を書いてしまってその後に「松」と書いてしまって、ハッとして書き直しました。(その時は大変疲れていた。)
何時もかける文字でも急に書けなくなってしまうこともある。
ひらがなでも書けなくなる可能性がある。
状況に応じて読めなくなる可能性がある。
人によって大分症状が違う、個人差がある。
学習障害と言ったようなことが、広く知れ渡ることによって周りが理解してくれて、当人がまず自覚してそれを受け入れて、発信してほしいと思う。
弟子は11人います。
最初弟子を取っていいかどうか迷った時に、小さん師匠から直ぐに「取りなさい」と言われました。
「教えることは学ぶことだ」と言われました。
祖父は40人から弟子を育てて、実感から出た言葉だったと思います。
師匠に返すものはなにも無くて、下に送って行く、伝統芸能を続けて行くことが、師匠に対する恩返しではないかと思いました。