河田勝彦(洋菓子店オーナー・シェフ) ・【美味しい仕事人】
日本は世界のトップレベルのスイーツ大国と言われています。 洋菓子職人、パテシエは今や人気職業のヒーローです。 その礎を築いたのが世田谷の洋菓子店オーナーシェフ河田勝彦さん76歳です。 1967年23歳の時にフランスに渡り12の店で腕を磨く傍らフランスの伝統菓子の研究に取り組みました。 パリの一流ホテルでシェフ・ドゥ・パティシエを勤めるまでになりました。 1976年に帰国、それまでの日本流の洋菓子界に本格的なフランス菓子を根づかせ、その理論と職人魂は多くのパテシエに多くの影響を与えています。 すべては美味しさのためにと語る河田さんに伺いました。
朝は5時に来たりとかしていましたが、息子が二人来て今は7時30分ごろになっています。 厨房では13人います。 12月は一番忙しい時です。 お菓子の種類は300,400種類あるのではないかと思います。 フランスには約10年いました。
生ケーキ、イチゴが旬であるとき(1~3月) バタークリームを使います。 秋はモンブランとか。
生地はアーモンドが少し入ったメレンゲでじっくりと弱火で長い時間焼きます。 表面は白いが中がカラメルになり、そのカラメルのうえに柔らかいマロンのクリームとか生クリームを重ねてゆくとその水分がメレンゲに沁み込んでいって、一体感でおいしく食べられます。
カヌレはフランスの伝統菓子です。 ボルドーで働いていた時にカヌレを初めてみて凄く衝撃を受けました。 菓子人生の中のきっかけを作ってくれた菓子なので、思い入れが強くてずーと続けてやっています。
甘いものに枝分れがあり、アイスクリーム、ボンボンショコラ、生菓子、焼き菓子、砂糖菓子などがあり、それぞれに又分類する仕方があります。 それを何とか自分のなかで表現したいという思いがあり、それが店を作った原因です。
「オーボンヴュータン(AU BON VIEUX TEMPS)」という名前の店をかまえました。
プチフールセック 日本ではクッキーですが、僕にとってはプチフールセック、一口の焼き菓子ととらえています。 僕にとってはフレッシュでなければいけないんです。
コンフィチュール(ジャム)は約20種類あります。
甘味に酸味があったり、風味が出てくるかどうか、甘いだけでは駄目ですね。
コンフィズリー(confiserieとは砂糖を主な材料として作るお菓子)、飴を伸ばすと空気が入ってきて砂糖に艶が出てきます。 煮詰めている温度が165~170℃ぐらいで、それを引っ張って、飴の中にジャムを入れたりします。 飴が何層も固まってきます。
若い人に言いたいのはいろんな修羅場を経験して欲しい、と言いたいです。
1944年生まれ、1964年に大学を中退してレストランに入りました。 オリンピックの年で店で僕が選ばれて、五輪食堂に行きました。 洗い物を担当して夜2時に終わったりして、体調を崩して病気になりました。 洗い場の隣で菓子屋がやっていて、見たこともないことばっかりだったので菓子屋に入ってやろうと思いました。
銀座の洋菓子店に就職しました。 2年半いて、店が倒産してしまって、フランスに行くことを決断しました。 僕は横浜から船でハバロフスクに行ってシベリア鉄道で10日間かかって、モスクワまでいきました。 食事の費用は入っていなかったので、10日間色々苦労しながら食いつないで行きました。 フランス語は半年間習っただけでした。
フランスに着いた時には一か月分のホテルを前払いしたらお金はゼロになってしまいました。 日本料理屋に3か月間お世話になりました。 その後菓子屋を紹介してもらって、その後はとんとん拍子に行きました。
日本とは材料、その他全然違っていて、雲泥の差でした。
5月革命が起きて、一時期お菓子からは離れようと思って、自転車でパリから飛び出しました。 半分ぐらいは野宿でした。 パリに戻ってブドウ狩りを経験したいと思って、ボルドーに行きましたが、ブドウ狩りの仕事はすごく大変でした。 或る菓子屋でカヌレを見て、まだ菓子のこと(形、色,食感)を全然知らなかったと知って、真剣にお菓子の仕事をしなければいけないと思ってすぐにパリに戻ってきました。
郷土菓子に興味を持って、菓子に関する本を給料のほとんどを費やして買い集めました。 郷土菓子、古典菓子がいろいろわかってきて、実在しないものが結構ありました。
「すべてはおいしさのために」著書 出版
毎日が訓練だと思います。