小池寿子(美術史家) ・【私のアート交遊録】疫病とアート
中世ヨーロッパの人々は蔓延する疫病に出会った時に、その状況をどのように考えて何を残そうとしたのでしょうか。 人間の死生観というものがどのように美術に現れているのか、中世の西洋美術を中心に長年研究して来られた國學院大学文学部教授の小池さんに伺いました。
アテネのペリクレスの時代に熱病が流行って、プリクレスが熱病で亡くなるが、ペストとは断言できないが相当数亡くなっている。 ビザンティン帝国の黄金時代を築いたユスティヌス皇帝の時代もおそらくペストと言われています。 17世紀の古典主義の巨匠であるニコラ・プッサンという画家が「アシドトのペスト」という絵を描いています。(1630年) 旧約聖書の「アシドトのペスト」というテーマを使いながら、リアルタイムのペストの惨状を描いた。 ヨーロッパでは可成りの頻度でペスト、他の疫病にも襲われている。
アダムとイヴが原罪を犯した。 楽園を追放されて、それ以降の人類は罪びとだという意識が非常に強くて、何か天災が起こると神の罰だととらえる、強烈な罪意識が日本人よりはるかに数々の疫病を心に刻む事になるのではないかと思います。
語られたのが1348年のペスト。 1347年ころユーラシア大陸のペスト菌が付いたネズミが貿易船により地中海に入ってきて、1948年には蔓延してゆき、ヨーロッパ人口の1/3が亡くなっている。 その後1360年代に2回来ている。
1348年のペストは文献資料とか絵画資料とかがかなりそろっている。
ピサのカンポサント(イタリア共和国北東部に位置する州)に描かれている壁面にいくつか描かれている。 「死の勝利」と3段階の死後の肉体の変化(死後硬調、腐敗、白骨化)が描かれている。 ヨーロッパキリスト教美術史史上初めての描写。
腐敗はキリスト教美術では罪の証で、聖なるものは死んでも腐らない、という事で悔い改まりなさいと、修道士が説教する。
「死の勝利」のタイトルは人文主義者ペトラルカの叙事詩『凱旋』からとられている。 キリスト教美術における教訓画のテーマ。あらゆる生者が、擬人化された「死」に支配される様子を描き、万人に逃れられない死への警句を示した、悔い改めなさいという説教の為のもの。
ジョットからルネッサンスは始まったといわれるが、ジョットは革新的な画家ですが、フィレンツェなどの人たちには新し過ぎてなじめなかった。
ジョットの新しい伝統が築かれる前にペストによって打ち砕かれてしまう。 新旧が入り混じった状態が14世紀後半のイタリアでした。
人間は必ずや死ぬ、どんなにおごり高ぶっていても、どんなに若くても全てが等しく死んでゆく、死を前にした平等性がテーマ。
鏡という思想は中世ヨーロッパキリスト教では非常に重要な思想で、世界は神の心理を映す鏡であるとか、鏡という言葉が盛んに宗教思想のほうでは使われます。 死者は生者の鏡である、それを見ている私たちも目の前にある「死の舞踏」はやがて私たちがステップを踏む、それを映している鏡だととらえているわけです。
1460年代に「盲目のダンス」という詩が書かれていて、そのころには死は死神が牛に乗っているんです。 死は牛のごとくゆっくり着実に訪れると言っています。 第二波、第三波の経験によって死が慣れて行くというか、死の準備の仕方を人々の中に浸透していった。
ユダヤ人はお金を儲ける銀行家とかがおおく、ヨーロッパの社会では排斥されつつ利益を得ていた。 シェーデルの「年代記」(キリスト教世界の歴史と地理に関する奇事や異聞を年代順に収録した598頁からなる大型フォリオ(二つ折り本)である)は15世紀末の作品とは言え、ユダヤ人殺しは中世を貫いてずーっと起こっていた。 ペストになると井戸に毒を撒いたと言って殺していった。
聖母マリア ルネッサンスが始まるころ、聖母マリアはとっつきにくさが厳かさを増していて、そのような聖母子像が主流だったが、ペストの蔓延、経済的な凋落とかあって、疲弊していった。
地面に座ってイエスを優しく抱いている謙遜の聖母というタイプが登場した、その変化が大きかった。 14世紀の後半から授乳する聖母が描かれるようになる。
ペストが起こって、ジョットのような新しい気運がふっと止まってしまった。 14世紀後半は逆行するような50年間ですが、ペストによって革新的な画家たち(親方たち)が死んでいって、新しい画家たちは自分の好きなことが出来るんだという事が、ルネッサンスに通じる突破口になったのではないかと思います。
今も同様に新旧拮抗している時期かもしれませんが、一種のエネルギーが蓄積されてゆく時期なのかなあとは思っています。
我々は傲慢になり過ぎていたのではないか、そう思います。 振り返ってもう一度考え直すいいきっかけかなあと思います。
私のお勧めの一点は「謙遜と授乳の聖母」です。