2020年12月3日木曜日

沢木耕太郎(作家)           ・人生も旅もかろやかに

沢木耕太郎(作家)           ・人生も旅もかろやかに 

1947年東京生まれ、横浜国立大学を卒業後、しばらくしてからフリーランスのライターとなり1970年『防人のブルース』で作家デビュー、1979年『テロルの決算』で第10回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、1986年から刊行が始まった『深夜特急 第三便』で第2回JTB紀行文学賞を受賞、2014年 『キャパの十字架』で第17回司馬遼太郎賞を受賞するなど、多くの文学賞を受賞しています。   今年は初めての国内紀行エッセー「旅のつばくろ」とこれまでの対談、インタビューを集めた「沢木耕太郎セッションズ」全4冊が刊行されました。   海外を舞台にした著作も多く、活動する作家として活躍されてきた沢木さんが最近の日々をどのように過ごしているのか、先月73歳になって今感じていることを聴きました。

23,4歳の頃に最初に外国にいったのは韓国でそれから50年近くたって、一年のうちで一度も外国に行かなかった年はなかったような気がするが、今年は本当に稀有な一年になると思います。  4月以降は東京を離れることはなかったです。

読みたい本があって、江戸城の中に一橋家と清水家があり、そこに勤める御用人の村尾 嘉陵という人がいて旅の好きな人でした。   江戸の近郊に行っては書き残していました。  その中に久遠仏への旅があり、そこまでの往復路の文章が復刻されて、「江戸近郊道しるべ」という本を読んでいまして、村尾さんの歩いた道を歩いてみようと思いました。   番町の切り絵図に村尾家が出ていましたので、ここから歩いていきました。  246号は大山街道と言っていました。 久遠仏まで3万3000歩でした。  村尾さんは約48kmを散歩して、その時に村尾さんは72,3歳でした。

本を読んで、切絵図を調べて、旅をする、やればいろんなことができるんだと思いました。

この一年大変だったという事はないです。  普通を維持することだと思います。

旅の本質的なことは移動することと、そこで何かを見たり、経験したり、他人に会ったり遭遇することだと思います。   この一年は移動を禁止されたわけですが、僕は移動することが好きなんだと改めて思いました。  移動が無くなり、遭遇も無くなってしまいました。

ガイドブックを使わず人に良く聞きます。  

高校1年から2年になる春休みに一人で東北地方に長い旅をしました。   均一周遊券を購入して、夜行列車で行きました。  夜行列車の同席のおばあちゃんからみかん貰ったり男の人からあんパンを貰ったりしました。   寒風山に行こうとしたら、ダンプに乗せてもらって、リンゴも貰いました。   そのリンゴをザックに入れて東京まで持ち帰り、それを機に旅の飢えをしのぐための保険としていつもリンゴをザックに入れておきます。  東北の旅が世の中を肯定的にとらえる一番の原点となったような気がします。

長洲さんのゼミナールに行ったのが僕の人生を変えたと思います。  原稿用紙に作文を書くように言われ、応募者が2,30人いたが、12人選ばれた中に自分はいませんでした。   落とされた理由を知りたいと長洲さんに聞いたら、作文は読んでいませんと言われました。  落としてしまうと大変だろうから、という理由で全員読んでいませんという事で、それなら問題ありませんと言いました。   先生は「僕のゼミに入ってくれますか」と言われて、初めて大人の人に認められた瞬間でした。  それが僕の人生を決定的に変えたと思います。

会社を一日で辞めてしまって、先生が雑誌を紹介してくださって、そこからスタートしました。

最初はルポライターで途中から小説を書くことにしましたが、ノンフィクションのライターの職業は好きで向いていたと思います。    ノンフィクションのライターは仮の人生を生きることにもなります。 

初めての国内紀行エッセー「旅のつばくろ」とこれまでの対談、インタビューを集めた「沢木耕太郎セッションズ」全4冊が刊行しました。   もう数年したら、フィクションも自在に書くような小説を書けるかもしれないとワクワクしています。

本は処理出来なくて、ツバメのように軽やかにはなっていないです。   

旅であれ人生であれ一人で生きて行くことが大事だと思っていて、若いころは家事能力が低かったが、今は家事能力は圧倒的につきました。   冷蔵庫の中にある材料を使って、料理して、台所の跡片付けもしっかりやります。  掃除、洗濯もやりますし、自信の源です。

旅も酒場も一つの学校で、そこで出会った大人たちに振る舞いとか、聞いた話などを自分なりに咀嚼して生きてゆくための糧にする、という事があって、若い人に聞いたら僕たちには酒場がそういう場ではありませんでした、という事でした。  僕たちが酒場での学校の最後の人達であったような気がします。  いろんな作家と飲んでチラッチラッと学んでいきましたが、途絶えてしまったが、僕らの下の世代になると、一緒に酒を飲むという事を好まなくなったと思います。   人に伝えるという事を僕らは怠ってしまったのかなとちょっと思います。

2020のオリンピックは意義、大儀が見つからず取材するつもりはなかったが、2021にオリンピックができる事になったら、取材したほうがいいかなとちらっとは思っています。  オリンピックでのコロナのお休みのひと時をカバーしてもいいかなと最近思い始めています。