岩川洋一郎(国立療養施設 星塚敬愛園入所者自治会会長) ・【人権インタビュー】いま訴えたい、ハンセン病差別の経験から
岩川さんは83歳、11歳でハンセン病と言われ、以来人生のほとんどの時間を星塚敬愛園で過ごしてきました。 ハンセン病や元患者への差別や偏見をなくそうと語り部活動にも取り組んでいます。 そして今、新型コロナウイルスによって新たな偏見や差別が生まれていることに危機感を抱いています。
今では早く発見して正しく治療をすれば治る病気という事ですが、治療がない時代は手が悪くなる人は顔は普通で、顔が変形する人、目が見えなくなる人、口が下がる人などが多かったために、一般の国民から差別を受けました。
終戦後まもなく23年ぐらいから治療薬が入ってきて3年ぐらいで98%ぐらいの人が完治しました。 今は衛生的にいいことと栄養が良ければハンセン病にはかかりません。
終戦後まもなく治療薬が入ってきて1996年にライ予防法が廃止されるまで、ずーっと隔離政策が続けられた。
昭和37年WHOは日本を除く全世界で隔離政策を全面的に廃止しました。
なぜ日本が廃止しなかったのかわからない。
1967年に屋久島で生まれて、親父は屋久島で役場に勤めていましたが、鹿児島へ転勤になり、家族で引っ越してきました。 ある日、顔に黒い斑点のようなものができたんですね。 そこで親父と一緒にあちこちの病院に行ったんですが、何が原因かさっぱりわからない。 親父が「ちょっと旅行にでも行こうか」と言い出したんです。 おにぎりを作りながらお袋が涙を流しているんです。 永野田(旧大隅線)という駅で汽車を降りて、そこから敬愛園までやってきました。 私は20分くらい診察を受けました。 園長か「君はまだ小さいから、3ヵ月したら帰れるよ」と言われました。
1週間して4つぐらいの部屋があり、1つの部屋には6,7名の子供たちがいました。 私はなんでここにいるのか判りませんと言ったら、「お前さんね、ライ病を知っているか」と言われまた。 「ライ病って知りません」と言ったら、「君はライ病だよ」と言われれました。 図書館に行ってライ病について調べました。
星塚敬愛園は1935年に設立、全国に13か所ある国立ハンセン病療養所の一つです。
本人の意思に関係なく特別列車で強制収容された。
部屋は12畳で6,7名が暮らしていました。 施設は有刺鉄線で囲まれていました。
27歳の時に好きな人ができて、この人と結婚しようかなと思った。 ハンセン病療養所では1948年に施行された旧優生保護法を根拠にハンセン病患者は子孫を残すことができないように男女ともに生殖能力を失わせる断種手術が行われた。 もし妊娠した場合は人工妊娠中絶が行われた。 判っているだけで断種手術は1551件、人工妊娠中絶が7696件。
或る日決心をして断種の手術をしました。 2年後に妊娠をして妻と相談して、これは天から授かったものだからいっしょに社会に出て子供を産んで育てようといったんですが、妻は泣きながら偏見差別があるからどうしてもだめだといいました。 断種の手術、人工妊娠中絶しました。
生まれることができなかった子供たちの慰霊碑が星塚敬愛園内にあり、1週間に4回ぐらい行っています。
今はいい形での生活はできます。 平均年齢は87.7歳です。 今年は20名の方が亡くなりました。 昭和18年には1347名で一番多く、今は92名です。 星塚敬愛園では85年の間に2150名が亡くなっています。 納骨堂に納骨された人は1604名、故郷に帰られたのは506名、1604名の人は故郷があっても帰れない。
生活するには国からお金が出るが、自分で生活できることが第一で、人の目を隠れながら生活しなければいけない。 偏見差別についてなくならない。 なくならないのは国のやり方の厳しさがあったと思います。
コロナに対する偏見差別は本当はあってはいけないが、怖さがあるためそれはあると思う。
コロナでの労災申請に対しても感染した人に対する社会的な差別のようなものがあり、声を挙げずらい現状があるといわれるが、これは本当に悲しいことです。
罹ってしまってかわいそうだねと思いながら寄り添う事だと思います。
今後も差別は断ち切れないと思います。 人間の人としてすごくいい人、何も言わない人、ああだこうだという人がいるが、ああだこうだという人の中に偏見差別があればこれはいけない、黙っている人の中に偏見差別が案外多い。
一般の人たちにはハンセン病の事実を知らない、本当はこういう形でハンセン療養所で暮らしてきた、今までどのような戦いをしたんですよという事をみんなに知ってもらう、これが大事です。