2020年12月22日火曜日

村崎芙蓉子(医師)           ・誰も見たことのない100歳を目指して

 村崎芙蓉子(医師)           ・誰も見たことのない100歳を目指して

村崎さんは85歳、東京銀座に高齢女性のための更年期医療に取り組むクリニックがあります。  それまで循環器内科医として新宿でビジネスマンを見てきた村崎さんが、57歳で開いたクリニックです。   村崎さんは大病院の副院長としてバリバリ働いていたころ、様々な心身の不調に悩まされました。  そんな時に偶然見つけた文献から女性ホルモンを補充したところ画期的に症状が改善しました。   女性の更年期障害のつらさとそれがホルモン補充で画期的に改善する事を身をもって体験した村崎さんは、高齢女性が生き生きと暮らしていけるようにと、更年期専門外来の開設を決意しましした。  以来28年、今も医療現場で患者さんの相談に乗っています。   終戦の時10歳だったという村崎さん、激動の60年代、70年代を医師としての激務をこなしながら、家庭と子育てを両立してきました。  団塊の世代の先輩として常に恥ずかしくないように働き続けてきたという村崎さん、今また誰も見たことのない生き生きとした100歳へのパイオニアとして現場に立ち続けています。

医者歴は60年になります。  57歳の時に更年期に気が付いて、新しいクリニックを作り、循環器のほうと重ねながら28年やってきました。   25歳で医者になって27歳で結婚して、子供が産まれ無茶苦茶でした。

父が公務員で2歳の時に韓国のソウルに転勤になり、本土に帰る時には生きるか死ぬかというような体験をして帰ってきました。   親は37,8歳でずいぶん苦労したと思います。

母は女性も職業をもっていたほうがいいという考え方でした。  母は一人しか産めないという身体だったようで過保護で育てられました。  私は身体も弱くて結婚も出来ないかもしれないという事で一人でも生きていけるようにと、職業を持たせてやったほうがいいという事で医者の道を私に伝えました。

次男が高校受験をして、高校には何とか入りましたが、子供と一緒に奮闘して、それを「カイワレ族の偏差値日記」という本にしました。  出版したら売れてしまって、23万部売れました。  教育審議会の委員になってほしいという電話があり、2年間勤めました。  どうして何十年もいい教育ができないんだろうと怒りを覚えました。  思考が纏まらないような状況でした。(56歳)  ずーっと忙しい状態が続いてへとへとでした。

退職して週3日の非常勤にしました。  色々家で勉強するなかで、コレステロールが女性ホルモンで低下すると書いてありました。   試しに飲んでみましたら、コレステロールが下がるよりも前に、疲れだと思っていたものが全部ファーっと消えていってしまいました。   色々読み直してみたら、私って更年期だったんだと気が付きました。

問診で40,50代の女性たちは話を聞くが何を言っているのかよくわからない。  全身がおかしい、頭が痛い、腰が痛い、肩がこるといわれても困るわけです。   循環器の医者なのでそれぞれの専門に分断して紹介状を書いていました。

彼女らが言っていたのは全部更年期障害の苦痛だったんだなあと、気が付きました。   自分のクリニックを作ってやってみようと決意しました。(57歳)   必死になって自分で採血したり、文献を読んだりしました。  更年期障害のことは全部出ているが、たった一つ抜けていたのが女性ホルモンのことでした。  

更年期障害は婦人科医がいいのではないかと最初は思っていましたが、肝機能、腎機能など総合的にみるのは内科医なので、むしろ内科医が見るのはメリットがあると思います。

以前は3分程度話を聞いていましたが、初診の人には1時間の時間を取って症状以外のことを含めて話を聞くようにしています。

それぞれ個別に対応しています。   婚活でそういう風になった時にはという事で60,70代の高齢の人も来ます。   

一生の仕事としてこれをやれているのは、大変だと思いながらも、どのぐらい幸せだったりとか、85歳まで長生きできたのもこれのお陰かもしれないと思っています。

好奇心は持っています。  「嵐」を国立競技場で見ましたが、それと同時に学徒出陣を思い起こします。  コロナとか異常気象とかあるが、戦争がなければ、現在女性の平均寿命が87歳ですが、100歳まで行くと思います。 鉄砲を担いで行く、それだけはないようにと思っています。