2020年12月5日土曜日

加藤いつか(NPO法人 理事)      ・「あの日をわすれない『はるかのひまわり』」

加藤いつか(NPO法 阪神淡路大震災「1.17希望の灯り」理事)  ・「あの日をわすれない『はるかのひまわり』」 

絵本、「あの日をわすれない『はるかのひまわり』」は女の子が真ん丸の顔でほっぺを真っ赤にして笑っている顔と大きなヒマワリが描かれています。 女のこの名前は「はるか」、震災当時小学6年生で阪神淡路大震災の時のあの日亡くなりました。   この絵本では亡くなったはるかさんのお姉さんの震災後の苦しみや葛藤、心の変化や成長を実話をもとに描いています。

朗読を担当したのは神戸放送今日の北郷三穂子アナウンサーです。  今神戸だけでなく全国の被災地に広がり、「はるかのひまわり」と呼ばれるようになったこのひまわりの花に秘められたストーリーをお聞きいただきたいと思います。

あの日をわすれない『はるかのひまわり』を朗読(概略)

ある夏のこと、まだ瓦礫と埃の匂いがする頃、神戸の街の片隅に一輪の大きなひまわりが咲きました。  大空に向かって力いっぱい咲くひまわりに神戸の人達はある女の子の名前を付けえて呼ぶようになりました。 このひまわりは阪神淡路大震災で多くのものを失った神戸の人たちのどんなことがあっても生き抜く勇気と希望を与えてくれたのです。  「あの日をわすれない『はるかのひまわり』」

お姉ちゃん 留守番頼むでー。 ハイハイ気い付けていってらっしゃい。  1月16日のことです。  はるかの友達がもうすぐ中学受験をするので、はるかとおかあさんは京都の神社までお参りに行ったのです。 ・・・夜の10時過ぎに帰ってきました。

いつものようにはるかとお母さんは1階に、私とお父さんは2階に。  翌日の明け方、1月17日午前5時46分あの瞬間に神戸が壊れた。 ・・・足が動かない、箪笥が足の上に載っていて箪笥を何とかどけて2階の窓から外に這い出る。  なんもかもぐしゃぐしゃ。・・・何度呼んでも誰の声も聞こえません。・・・壊れた家からお父さんが助け出されたのは3時間後、おかあさんは5時間後でした。   ・・・はるかが見つかったのは一番最後地震から7時間が経っていました。  ・・・はるかがいない私の家族、私たちは近くの体育館に住むことになりました。   発砲スチロールの板で分けられた小さな四角い床が私たちの家族が住む場所です。 ・・・夜になると咳や赤ちゃんの泣き声も聞こえてきます、目を閉じてもなかなか眠れません。 長い夜が続きました。  2か月後私たちの家は体育館です。・・・高校受験は変わらずにやってきました。   大学のボランティアのお姉さんが渡してくれた包みは暖かくてほんのり海苔の匂いがするお弁当でした。   お弁当のお陰で試験はばっちりでした。  その年の夏のことです。  「ひまわりが咲いた」、お母さんがぽつりと言いました。  うどん屋のおっちゃんたちがはるかを助け出した場所に、はるかみたいに真ん丸な顔をした大きな大きなひまわりが咲いた。  「はるかの生まれ変わりや」、おっちゃんも周りの人も言いました。    ・・・その秋おっちゃんはひまわりの種を収穫しました。  そして次の年の春から種を蒔き始めたのです。  瓦礫が片づけられた後とか道の端っこに。   ・・・お父さんは前よりも話をしなくなり、声を掛けてもお母さんはいつも遠くを見ています。  ・・・もう地震もはるかの思い出もひまわりも嫌、なんもかも箱に入れて海の底に沈めてしまいたい。

・・・あれから何年かが経ちました。  神戸で大きなイベントが開かれることになりました。   ・・・今では家やビルが建て変えられて街はどんどん新しく生まれ変わってゆきます。   心が元気になるにはもっともっと時間がかかります。  コトリ、私の中で何か心が動いたのです。  あのお弁当のお姉さんが突然心に浮かびました。  私でもイベントで何かお手伝いできるやろか。    ・・・「神戸2001 人 街 未来」これが地震から6年目に神戸で開かれたイベントです。  ・・・きっときっとはるかちゃんも見てるで、この人達の中にもあの地震で家をなくしたり、家族を亡くした人が何人もいるんや。  コトリ、又私の中で又何かが動いたのです。  なにも話してもいいんや、はるかのことを話してもいいんや。 私の心の箱の蓋がゆっくり開いたのです。

9か月のイベントが終わっても、おっちゃんやおばちゃんたちはもっといろんな活動を始めました、もちろん私も一緒です。  ・・・震災モニュメント交流ウオークにはたくさんの人が参加します。   うどん屋のおっちゃんたちが何年も続けてきたヒマワリの種まきも私たちが引き継ぐことになりました。   

・・・家族など亡くしたりした、りなちゃんもゆうちゃんもみんなここに来て話がしたいのです。

次のウオークの打ち合わせの時のことです。  「おまえも震災の語り部として震災のことをみんなの前で話をしてみないか」とリーダーが言いました。  何を話したらいいんだろう・・・「みんなで種を蒔いたひまわりのことさ」と言われた。   力が湧いてきた、私もう大丈夫や、地震のこと、命のこと、そしてはるかのこと話せそうな気がする。

生きている私が今できる事は、はるかの名がついたひまわりのことをみんなに知ってもらう事です。  地震でなくした大切なもの、地震の後に知った優しい人の気持ちや仲間のことをこれからも ずーっと伝えてゆくことです。  「お姉ちゃんありがとう」、拍手のなかではるかの声が聞こえた。

1月17日今年もあの日がやってきます。 前の日の夜から多くの人が震災の記念碑に集まって静かに祈りを捧げます。  亡くなった家族のために、大好きな人のために、神戸のために。  灯りに照らされたひまわりの絵は全国から届いたもの。  「はるかのひまわり」は、あの震災にかかわる全ての人の心の花になったのです。

・・・この間はお母さんがこんなことをいうたんねん、「これからはいつか(姉の私名前)のためにはるかの分まで生きなあかんね」、って。  今度の春はお父さんとお母さんと三人でひまわりの種まきできそうや。 

「はるかのひまわり」はこの25年で、東北、九州、海外の地震の被災地でも咲いて希望の象徴になっています。   去年の歌会始では上皇様がこのひまわりのことを歌にされました。

「贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」

出来るなら妹と変わりたかった、という思いがありました。  親の悲しんでいる顔を見たくなかった。  親は泣いて暮らしていてこっちにも向いて欲しいという事は言えなかった。  なんであんなにしんどい思いをしていたのかなと思いますが、ふっと振り返ると必ず見てくれていた人がいたんです、「いつか(私の名前)大丈夫?」とか何気ない一言があって、振り返ってみると絶対どこかにいます。

いつかさんは結婚して、菊池いつかさんになって、2歳の女の子のママでもあります。  いつかさんは今度は娘さんとひまわりを育てたいと話していました。