宇都宮直子(ノンフィクション作家) ・【わが心の人】三國連太郎
三國連太郎さんは1923年(大正12年)生まれ、昭和18年中国に出征、戦地から引き揚げた後28歳で俳優デビューします。 三國連太郎さんは個性的な俳優として知られ、役のためにはどんな困難もいといませんでした。 2013年(平成25年)4月亡くなりました。(90歳)
宇都宮直子さんは三國さんご夫妻と30年にわたり親交を深めてきました。 今年の春には「三國連太郎 彷徨う魂へ」という本を出版しています。
普段は笑顔でハンサムでした。 80代を迎えたころからますます人間的な魅力にあふれた方になられたような気がします。
30年ぐらい前に撮影所に通っているときに奥さんから声を掛けていただいて、そのうちご自宅に招いていただくようになりました。 三國連太郎さんの最初の第一印象は怖かったです。
役者になる前は貧しくて飯さえ食えればいいという事で役者を始めて、芝居さえできればいいと、トラブルを多く抱えていたので独立系の映画にノーギャラで出演したこともありました。 病に倒れてからも芝居さえできれば何でもいいとおっしゃっていました。
三國連太郎の名前はデビューの時の役の名前でした。 三國さんほど変わった経歴の方は珍しいと思います。
演じることにめっちゃくちゃこだわっていて、「異母兄弟」と言う映画では健康な歯を何本か抜いてしまって、熱が出て顔が腫れて結構痛かったと言っていて、自分をどう老人になるためにどうしたらいいかという事で歯を抜いたそうです。 撮影後食べようとしても食べられなくて入れ歯を作ったそうです。
自分の納得できる演技の為にはトラブルがあり、監督ともよく衝突していました。 人の言いなりになるのは堕落だといつも言っていました。 大船撮影所の門扉に「犬・猫・三國、入るべからず」との看板が取り付けられたという。
映画「飢餓海峡」では殺さざるを得なくなったから殺したんであって彼ははじめから殺意を持っていなかったんだと私は理解していましたが、後で三國さんに聞いたら、あれはあの男は殺人者ですよ、絶対に人を殺して自分だけは生き残ると思ったと解釈してそういう思いで演じました、という話を聞きました。
いろんな役をやってきましたが、自分の中での真実を常に追求してきた役者だったと思います。
「釣りバカ日誌」の社長役は一本で終わりにするつもりだったが、一本一本に社会背景がきちんとしていて、それぞれの痛みを抱える人が登場してきて、それが多くの人の共感を呼んでヒットしたのではないかという事と、西田さんの魅力に引っ張られて長く続いたのかなあと言っていました。ただの喜劇ではなく、チャップリンのように社会に針を刺すような姿勢をもって演じたつもりでいる、と言っていました。
沼津の別荘に一人でいることが好きでした。 友達と呼べる人は最後までとくにいなかったのかなと思います。 読書家でした。 物凄く難しい本、宇宙に関する本とか詩集とかいっぱいありました。 小説も書いていましたが、最後までは仕上がっていませんでしたが、大作の小説に多分なるはずでした。
親鸞の研究とかもしていました。 いろんな生き方、いろんな考え方が読書から見える、だから本を読むんですと言っていました。 書、絵などもやっていました。
佐藤浩市(息子)、浩市に傷をつけたとよくおっしゃっていましたが、その傷を凄く上手に癒していて、さすが三國さんのご子息だと思います。
三國さんは本当に浩市さんのことを愛してらっしゃったと私は思います。 二人は仲が良くないという事がささやかれていましたが、三國さんはご自身のことしか興味がありませんでしたが、浩市さんのことだけは良く気にされていました。
本の中に「僕にとって(佐藤浩市さんにとっては)、役者三國連太郎が父親であり、父親三國連太郎は役者なんだ」とおっしゃっています。
寛一郎(孫)さんも俳優になっています。
「三國連太郎 彷徨う魂へ」という本を出版して、本当にありがとうございますともう一度お伝えしたいです、刊行前に亡くなられたので。