2020年12月18日金曜日

深作健太(映画監督・演出家)      ・父と息子のバトル・ロワイアル

深作健太(映画監督・演出家)      ・父と息子のバトル・ロワイアル 

1972年東京生まれ、父の映画監督深作欣二の影響で、学生時代から映画や舞台ににめり込みフリーの助監督を経て2000年に父が監督を務めた「バトル・ロワイヤル」の脚本プロデュースを担当、その後「バトル・ロワイアル2」の制作中に父が亡くなり、後を引く注いで映画を完成させました。   最近はオペラや演劇の演出に活躍の場を広げ、この秋にはヴェートーベンの唯一のオペラ「フィデリオ」の演出を手掛けて話題になりました。   どんな時代でも常に平和や自由に対するメッセージを伝えるのが父から託されたことという深作さんに伺います。

一人っ子です。  父が43歳の時に生まれたので随分可愛がられました。  怒られたことなく育ちました。   東京の大泉と、京都の撮影所があって、1972年の「仁義なき戦い」、僕が生まれた年からずーっと京都の撮影所にいたので、東京の家にはほとんどいませんでした。   

撮影現場に行くと元気な父親がいました。 周りから父は監督と呼ばれていて、父は監督という人なんだと思いました。  あまりに楽しく働いていたので、5歳の時には映画監督になりたいと思って、おやじの背中を追いかけることになりました。  可能な限り撮影現場に呼んで遊ばせながら学ばせてくれました。

父親からは難しい理論などは学んではいませんでしたが、いろいろ聞いているうちに映画とは何かを学んで行けたと思います。

撮影は夜から明け方までやったりしていて、その後酒を飲んで、一休みしてまた始めるとかやっていまして、俳優の菅原文太さん、松方弘樹さん、渡瀬恒彦さんなども目の下にクマを作って、そのクマがやくざを演じるにはちょうどいいんですね。

この人達にも遊んでもらいながら、映画作りとはなにか、俳優の芝居とは何か、などを学ばせていただきました。   健太という名前は高倉健さんが名付けてくれたようです。(高倉健の「健」と菅原文太さんの「太」と言われていますが。)

母は中原早苗です、母親は最後まで映画の世界、監督になるのは辞めなさいと、監督になっても言っていました。

成城学園は個性を尊重するところで、映像の授業では8mmフィルムを回して体験ができました。   本格的に撮り始めたのは中学3年生の頃からです。  いい友達に恵まれて学校を飛び出して映画を撮るというような事をやって楽しかったです。   

自由とは何だろうと、学校からもおやじの背中からも絶えず考えさせられてきました。  おやじは不器用で家庭というものを大切にはできなかったし、僕がおかしくなるかというとそんなことはありませんでした。  

世の中のシステムがなんかおかしいなと思って、嫌になってぐれそうになった時に、父親の「仁義なき戦い」の映画を見たんですが、やくざ社会を描いているとはいえ、親分たちが社会の強いシステム側の人間たちが、弱者チンピラたちを切り捨てて行く話で、どこか今の資本主義を選択した日本のシステムには相通じることがあると思ってみて、おやじは僕たち側の人間だと思いました。  自由とは何か、平和とは何かを訴えかけるという根本は、1945年の敗戦まで父はバリバリの軍国少年として育ったのではないかと思います。  大人たちのいう事が急に民主主義のために生きろと、いうことで、どう生きていいのかわからない。

外国映画を観て、すべて嘘ではないかと、自分の価値観だけを大切に生きなさい、という思いの元に映画製作して、おやじの映画は全部それがにじみ出ているんですね。  60本ある映画がほとんど若者の側に立って描かれている。

最後の映画「バトル・ロワイヤル」は中学3年生が殺しあう映画ですが、かつて国が俺たちを戦争に仕向けようとしたんだと、戦争とはそういうものなんだと、42人の死んでゆく姿にかつての自分たちを重ねて、戦争とはよろしくない、しかし暴力は絶対否定できなくて、ある日普通の人間が平気で人を殺さなくてはいけない、殺せるようになってしまう世の中が危険であって、それを訴えるために、おやじにはやくざ映画、「バトル・ロワイヤル」があって、20代になってからようやく意味合いが判るんです。

映画に行くことは決めてはいたが、アルバイトを6年ぐらい清掃業をやり、その後子供番組の現場に飛び込みました。  父親から助監督の話があり一緒に仕事をすることになりました。   

本屋から買ってきた本の最初の「バトル・ロワイヤル」の作品の帯が「中学生42人皆殺し」という帯で父親が面白がって、自分が中学3年生だった時に1945年の8月の敗戦だったという記憶がよみがえってきたわけです。  SF小説だったが父が大東亜戦争を重ね合わせたんですね。

ビートタケシさんが先生役で出ることになり、資金集めも楽になり作っていきました。

酒鬼薔薇事件』とかがあり、世相が最近の子供がおかしいといわれていた90年代でした。

父は一緒に理解しようと思ってくれる。

父が長年がんを患っていてもうあと数年の命ということが判って、「バトル・ロワイヤル2」を作ろうとします。  かつて生き残った少年がテロリストと呼ばれて、世界中の大人から攻撃される話なんだと後組だけ決まっていた時に父が亡くなってしまいました。  後を僕が監督になるという事でそれがデビュー作になったわけです。  大好きだった父の深作欣二、深作健太と並記してデビューさせていただき幸せでした。  父と一緒に作ったような感覚がありました。

おやじにもらった一本の刃のような感じがして、心の刃は大切にして、物つくりを続けてゆくというのを30歳の「バトル・ロワイヤル2」のデビュー作の時に思ってしまいました。

小劇場にも行っていましたが、いつか演劇を演出したいと思っていました。  演劇でも38歳ぐらいの時に演出家としての夢を果たすことができました。  オペラ、ワーグナーに出会ってびっくりしました。  オペラもいつかやりたいと思っていて、2015年にデビューさせていただきました。 

オペラ「フィデリオ」 ヴェートーベンが唯一一本だけ書いたオペラで、フランス革命の影響を凄く受けていた作品です。  バスティーユ牢獄襲撃事件 というフランス革命のきっかけとなった、民衆が政治犯を救い出した。   物語のほうも裏側にあるのは古い体制を打破していこうという革命の精神で、今だったらどう表現するのか、1980年代後半、ベルリンの壁の崩壊、ぺレストロイカで冷戦が終わって世界が自由になるのではないかという夢を見れた時代でした。  ヴェートーベンの描きたかった人類愛をもう一度コロナ禍の日本に呼び起こすことが出来ないかと、使命感に燃えて作りまた。

若い方にこそ見てもらいたい、若い人を応援していきたいと思っています。