井山計一(バーテンダー) ・「日本一幸せなバーテンダー」
93歳、戦後の混乱期工場勤務やダンス教室など職を転々とし、20代半ばでバーテンダーになりました。
33歳の時に大手洋酒メーカー主催のカクテルコンクールに参加、創作カクテルでグランプリを受賞しました。
「雪国」は今やスタンダードカクテルとして国内外で広く愛されています。
共に店を切り盛りしてきた妻のキミ子さんを2016年に亡くしてからもカウンターに立ち続ける井山さん、その半生を描いたドキュメンタリー映画がこの1月に公開され静かな反響を呼んでいます。
「雪国」、薄く緑がかっていてグラスの底にはミントチェリーが沈んでいて、ガラスの縁には砂糖が雪を連想させる。
当時はカラーのカメラが無くて色鉛筆で材料、手順などを書いて投票するわけです。
全国8つ地域で予選がありました。
私が投票したのは第3回目の大会で2万4000人が応募しました。
最初はグラスの縁につけておきました。
ところが或る人がこの方がいいと言ってくれたと言う事でした。(長嶋会長でした)
壁に詩のような文章があってそこに書いてあった「雪国」という言葉もいいなあと思って付けました。
ウオッカ、ホワイト・キュラソー、ライム・ジュース の瓶が3つ並んでいました。
ライム・ジュース 、これを使ったらいいなあと思って、作りました。
広がってカクテルブックにも載るようになりました。
どこにも材料があり、誰でも手掛けることができるので広がる率が高かったようです。
私は酒は駄目で飲めませんし、魚は食べられません。
父が料亭をやっていました。
私は長男で姉と妹がいました。
父は私を後継ぎにしたいと思っていました。
カクテルの味見もしません、お客さんの顔つきを見て行けるかどうかを判断します。
卒業後東京芝浦電気に就職しました。
当直を変わって空襲から免れ助かりました。
昭和20年に地元に帰ってきました。
召集令状が来たのは昭和20年8月18日でした。
玉音放送を聞いてもよく判りませんでした。
9月から叔父が旅館組合の組合長をやっていましたが、ダンスホールを作ったので、見回りをやってくれないかと言われました。
ジャズをやっていて面白いなあと思いました。
ダンスを習うことになりました。
昭和23年に母親からお金をわたされて、「東京に行って勉強して本物のダンスの先生になってきなさい」と言われました。
戻ってきたらみんなが教えてほしいと言われました、それはジルバでした。
昭和24年の秋に、母親がお前の結婚式を決めてきたと言われました。
菊池キミ子だと言われましたが、生徒の一人でした。
妻はダンスはどうも駄目で練習してもパートナーとしては駄目だと判り、職を変えないといけないと思いました。
キャバレーの求人広告がありバーテンダーが向いているかもしれないと思いました。
応募者は200人ぐらいいました。
その時は27歳でもう駄目だと思いました。
バーテンダーは7名でその最期の方で受かりました。
チーフのやる仕事をよく見て、どんなふうにやるのか、何を使ったのかとか、メモをして一生懸命に勉強しました。
後で聞いた話では、ボーイ、バーテンダーが結構いるのでトラブルが起きた時に、ダンスの先生をやっていたし年配のなだめ役がいた方がいいと言う事で雇ったと言う事でした。
妻はニコニコして怒った顔を見たことが無かったです。
1年後に妻と子供を仙台に呼びました。
妻はドレスメーカーの学校の生徒で、ドレスを作っていたりしました。
我々の給料が7000円のころにホステスのドレスは2,3万円していました。
そこでドレスを妻が作るようになり、6000円で売ってそれがひろがり、ホステスは250人位いたので次から次に注文が来るようになりました。
3か月位やったら急に目が見えなくなり、病院に行ったら単なる栄養失調だと言われました。
食事もとらずにミシンを踏んでいたようです。
初めて私の役に立ったと言う事でした。
私が疲れて帰ってきて寝てしまうので起こさないように、足を使わずに手でミシンを回していたとの事でした。
もう作るのはいいからという事で、最期のドレスを届ける時に、自分では判らないので二人の子供に両手をひかれて、帰ってきました、そこまでやるとは思わなかった。
映画になり、ロケを始めた年の5月30日に妻は亡くなりました。
とにかく女房は天下一品ですよ。
店では8割がたは「雪国」を要望します。
カウンターに入るとしゃきっとします。
学生時代はスキーの選手で、その後ダンスで、足腰はしっかりしています。
キミ子がきたおかげでダンスができなくなり、その代わりにとんでもない人生になりました。
ダンスができなかったから転業して、映画にもなりました。
東京オリンピックが終わるまではみっちり働きたいと思います。