2019年3月8日金曜日

徳水博志(宮城県石巻市雄勝小学校元教諭) ・「"復興教育"で心の再生を」

徳水博志(宮城県石巻市雄勝小学校元教諭) ・「"復興教育"で心の再生を」
65歳、徳水さんが教えていた雄勝小学校は東日本大震災の津波で校舎が全壊しました。
4月になってとなり街で学校は再開されましたが、転校などで児童の数は半分以下になってしまい、また震災の辛い記憶や仮設住宅の生活の影響から子供達は勉強に集中できない状態が続いていました。
徳水さんも自宅を失い、心身の不調が続いていましたが、復興に向けて地域とのかかわりを再び深める中で、徐々に回復してきました。
そうした自分の体験を子供達のケアにも役立てたいと、徳水さんは「復興教育」というプログラムを立案実施してきました。
子供達はどう回復への道を歩んできたのか何いました。

復興住宅に入って、2年と半年になります。
いい環境です。
家はすべて失って親戚に間借りしてその後復興住宅に入りました。
地震が起きた時には今までにない揺れの強さ、3分近く長くてとんでもない事が起きているのではないかと思いました。
4年生を担当していて24人いました。
教室には5人残って遊んでいました。
おびえて泣き出していました。
校舎の倒壊はありませんでした。
しばらく校庭にいましたが、或るお母さんが「ここにいたら津波にさらわれるので山に逃がせて」と叫びました。
神社のある山に誘導しました。
山は12,3m位でしたが、神社には非難してから5~8分で津波が来て、子供達を山に避難させました。
校舎の屋上まで水没しました。
下校した2年生は家族とともに流されて亡くなっています。

4月21日にとなり街の中学校で再開しました。
108名いた生徒が41名に激減していました。
41名のうち39名が自宅を流されて、親戚の家とか避難所から通ってきました。
子供達は一見落ち着いているように見えるのですが、実は呆然自失状態だからなんです。
テンションの高い子もいました。
不安を打ち消すために喋るんですね。(高学年が多かった)
心も体も縮こまっている子が多かったです。
私自身家を失い義理の母を亡くしていて、自分のことで精一杯でした。
何をすればいいか判らなかった。
目の前の子供達から新しい教育を立ち上げるべきではないかと気持ちが固まってきました。
内面に抱えている辛さ、苦しみを解放してあげるような学び、地域を失っているので復興に参加したいという要求を子供達ももっていて、それにこたえるような教育を作ろうと思いました。

「復興教育」という名前を付けました。
①地域復興を学び、復興に参加する活動。
②子供抱えている辛さ、不安等を解決するような心のケアを行うような学び。
の2本立てです。
私自身の体験に基づいています。
自宅をながされて 教育実践資料全て流されて、失意のどん底で教師を続けていく気力がわいてきませんでした。
茫然自失が続いてましたが、地域とか校舎に何回か通っている時に、或る新聞社が学校で子供の作品を私が手に取っている処を写真に撮って全国版の新聞に報道したんです。
その記事を見て私宛に全国から続々と支援物資が届きました。
雄勝地域の人にその支援物資を配付して回っていたら、涙を流して喜んでくれて、逆に力を貰いました。

5月に地域の人から街作り協議会に参加しないかと言われて参加して、行くたびに自分の体から力が湧いてくるような体験をしました。
地域との繋がりが切れた、地域の自然、地域のコミュニティー、地域の教員だったという自分を支えていたつながりが街が消えた事で、自分自身の人格そのものが崩壊する様な感覚に陥っていて、それが喪失感の本質ではないかと思いました。
自分が元気になって行く理由は、自分自身が繋がりを回復してきているからだと捕えました。
繋がりを回復することで、希望がわいてくると言う事が判ったんです。
人と繋がり希望を紡ぐ復興思想と名づけました。
子供達にこれを応用できないかと考えたのが「復興教育」です。
授業が成立できない状態でしたが、体を動かすことはできると思ったので、私は演舞をやっていたのでこれを子供達に教えて、地域で踊ってみせようじゃないかと子供に提案しました。
体の感覚が踊ることで回復して元気になってくる。
地域で踊ってみせて、地域の人が喜んでくれて涙を流してくれるのを見て、子供自身が自信を持つんですね。
地域の為にもっと何かできないかと子供自身が思い始めました。
大人たちが復興に関わっている姿を見てもらって、地域の復興の想いを子供達に触れさせてみて、震災を乗り越えて行くモデルにして欲しいと思ってやりました。

①まず大人に出会わせること。
 職人の遠藤弘行さんの硯を彫っている姿に子供達が驚くんですね。
 うわ硯の復活の思いを語る遠藤さんの姿を見て、子供達は勇気を貰った。
 自己形成のモデルとなる。
 雄勝のスレート(雄勝石)で屋根に葺いているが、津波で散乱しているので、それに名
 前を書いて表札として配ったら、すごく喜ばれるんです。
 自己肯定感を高めて行くわけです。
 生きる力、希望を自らがつくりだしてゆくわけです。
②街の将来復興のプランを考えようと提案しました。
 子供達は自分たちなりの復興プランを作り上げました。
 街にアンケートを取りに行くと病院、商店街、学校、住宅等生活に即した要求を持って
 いてそういったものが欲しいという様に住民達は思っていて、子供達との考えの落差に
 愕然とします。
 住民の考えに沿ったプランを考えて行く。 
 滞在型観光プランに立脚した街作り。

震災2年目の方がストレスをため込み、学級が荒れて来ます。
子供に寄りそって心にある不安などを聞きとって受け止めて表現させる、そこから始めようと思いました。
俳句、作文、絵などを通して表現してもらい、それを共有する。
判り合う関係が出来て、そうすると心が軽くなり一体感が生まれて来る。
3年目は体調を崩して病気状態で 同僚達がやってくれていました。
2014年に定年退職しました。
全力でやり抜いたので、悔いはないです。
「復興教育」は子供達を地域復興に参加させて、復興の主体を育てようと言う目的の教育ですが、地域に受け皿としての会社があるかと思ったらないので、自分で会社を作ろうと思って妻と一緒に会社を作りました。
①被災地支援、教育支援、②ボランティアの受け入れ、③北限オリーブの栽培。
この三つの事業をやっています。