2019年3月19日火曜日

三遊亭金馬(噺家)              ・「金馬 90歳の復活」~前編         

三遊亭金馬(噺家)              ・「金馬 90歳の復活」~前編   
去年7月に脳梗塞と心不全を起こして入院、その後懸命なリハビリで回復し今年の正月には元気に高座に復活しました。
12歳で落語家になった金馬さん、昭和30年代にNHKの番組、「お笑い三人組」でも活躍されています。

落語界最古参の落語家、90歳になります。
去年に7月に脳梗塞と心不全を起こしましたが、心臓はなんとか治ってくれて、脳梗塞は酷くなかったので、リハビリをして10月まで病院にいました。
今年の1月から落語をやらしていただきました。
その時は救急車が来てくれました。
往来で倒れた時もあり、タクシーの運転手さんが気が付いてくれて、病院へ患者さんを運んで空いた救急車があり、運転手さんが呼び止めてくれて救急車が運んでくれましたが、医師がもう駄目だと言う事でした。
息も無くて、妻が身体を撫ででいたら瞼がぴくっと動いて、先生が手当てをしてくれて何時間かして息を吹き返しました。(5,6年前の話)
今回も倒れて5日位意識不明で、気が付いて病院らしいなあと思いました。
落語の覚えた話をしてみたら出来たので、脳も大丈夫なのかなあと思いました。

リハビリも一生懸命にやりました。
作業療法と理学療法と二つあります。
作業療法をやってできると褒めてくれるんです、そうすると嬉しくなりまたやるわけです。
ひと月経った頃にはリハビリをやるのに呼ばれるのが楽しくなりました。
しゃべるリハビリも一日5時間位やりました。
どんどん効果が上がりましたが、ある日突然身体が動かなくなってしまいました。
3日目には動いてご飯も食べられる様になりました。
後でわかったことですが、リハビリをやり過ぎて疲れが溜まってしまったようでした。
歌丸さんが酸素ボンベをしょって管を入れながらやっていましたが、お客さんに聞いていただいて、死ぬまでそれが出来たらこんなうれしいことはないですね。

NHKの「お笑い三人組」は元々はラジオで始まりました。
昼間の12時半から始まり、評判が良くて、夜の7時からになり、TVが始まってTVでもやってみようと言うことになりTVで大当たりしました。
ラジオとTVの両方でやっていましたので、ラジオではト書き迄読むので台詞は多かったです。
10年間それをやりました。
生番組でやっていて、テーマ曲で最期の時間調整をして、職人技といった感じでした。
立ち稽古をして当日火曜日の夕方に2回ほど通し稽古をして、その前にジェスチャーの番組がありその後に始まるわけです。
生放送でやっていましたが、生という事をみんなあまり感じていませんでした。
3人は私(三遊亭小金馬 落語)、一龍斎貞鳳さん(講談)、江戸家猫八さん(物まね)でした。
女性陣が桜京美さん,音羽美子さん,楠トシエさんでした。
楠トシエさんは歌はうまいし、声は良いし話もいいし芝居も上手いし、当時のコマーシャルソングはほとんど彼女が歌っていて、あんなに達者な人はいなかった。
桜京美さんも女優で達者で、,音羽美子さんは女優で歌手でお嬢さんといった感じでした。
それぞれが特徴を出して面白かったです。
悪人は出てこなかったですね、不愉快な気持ちをさせなかった。
ちょんまげ物もありましたが、評判が悪くて半年で辞めて、元の現代劇に戻りました。

落語はラジオでは流行っていたがTVの時代になって、動くものという事で演芸で曲芸、奇術等もあり、演芸番組が増えて行き落語、漫才も加わっています。
そのおかげで地方でも落語、漫才も通るようになりました。
私が噺家になった頃(昭和16年ごろ)は東京から一歩でると地方では落語なんてなんなのか判らなかったです。
講談、浪曲などの人気から比べると全然低かったです。
面白いからレコードで売ろうと言う事で、レコードで売っていました。
落語が少しずつ通用する様になり、軍隊慰問などに行くと、落語漫才は手軽にできて笑えるので、落語、漫才が判ってもらえるようになりました。

1929年東京世田谷の生まれで、直ぐ深川に引っ越していきました。
一人っ子でした。
同年代と喧嘩すると兄貴が出てくるので悔しかった。
家は大衆食堂をやっていました。
柳家金語楼さんの兵隊落語ができると言う事で、酒を飲んでいる店のお客さん達の前でやったら上手いぞと言われて 「将来落語家になれるぞ」と言われて、きっかけはそこからです。(小学校1年生)
それからレコードを色々買って落語を覚えました。
親は浪曲は知っているが落語を知らないので、余り反対はしませんでした。
中学に行くつもりだったが、試験に落ちて、母親が演芸関係の人に相談して、東宝名人会の支配人から頼んでみようと言う事で、行ったがが師匠からまだこの歳ではと断られて、東宝名人会の見習いと言う事で入りました。
そこで教えてくれた人がいて10位教えてもらって、東宝の社長の秦豊吉さんが喋らして見ろと言う事で、噺をしたら面白いと言われて、月給を10円貰いました。
師匠がいるわけでもないので、失敗しても怒られる訳でもないし、遊んでばっかりいました。
うるさい師匠が良いと言う事で、金馬師匠が良いと言うことになり弟子になりました。
当時の寄席には浪曲、講談、漫才だけでなく、曲芸、義太夫、清元、新内流し、色んな分野の人が出ていました。
そういったものを全部見たり教えてもらったりしてもらい幸せでした。