金田諦應(僧侶・「傾聴移動喫茶」マスター) ・「被災者と未来の物語を紡ぐ」
62歳、東日本大震災の直後から避難所や仮設住宅に赴き、「傾聴移動喫茶」を開いて被災者の声に耳を傾けて来ました。
これまでに話を聞いた被災者の数は2万人近くになります。
その人の生い立ちや歩んで来た道を聞いて、共に救いの道考えて行くと言うこの活動、宗教や宗派を越えて心のケアに繋がる臨床宗教師の実現に繋がりました。
金田さんは東北大学で行われている、臨床宗教師の教育プログラムで指導者も務めています。
8年前の3月11日、最大震度7で大きな揺れが3回ほど波打つように揺れたのを記憶しています。
揺れが収まった後に考えたのはまず本堂が潰れたのではないかと心配しました。
3分ぐらいはTVが見れましたが、そこからストンと電源が落ちて全く情報が入ってこない状況でした。
6mの津波が来ると言う放送があって切れてしまいました。
6mであると海岸近くになると18m位かそれ以上になると小さいころから伝わってきていました。
沢山の人が死ぬのではと頭に浮かびました。
頼りになるのはラジオでした。
荒浜海岸に300体程の遺体が浮かんでいる模様です、とのアナウンサーの声が聞こえました。
もしかしたら10万人単位で亡くなる方が出るのではないかと叫んでいました。
夕方位に雪が降り出しました。
ずぶぬれになった人達に追い打ちをかけるような雪でした。
30分程度の間雪がやんでその時には満天の星空が広がっていました。
宇宙がむき出しの生と死を包み込んであいると思って呆然と立ち尽くしていました。
南三陸町、石巻、東松島の火葬場の施設がほとんど駄目になり、こちらに運ばれて来て荼毘にふすという情報が入り、仲間のお坊さんたちに声をかけて御遺体の御供養をしようという事を呼びかけました。
最初に運ばれてきた御遺体が小学校5年生の女の子でした。
お経を読み始めようとした時に、待って下さいもう一体来ますので二つ並べて御供養してくださいと言う事でした。
もう一体は同じ小学校のお友達の女の子でした。
衝撃を受けてお経の声が震えてなかなか出せませんでした。
その様子を撮影しようとしていた新聞社の方が俺はシャッターを押せない、どうしたらいいんだろうと困惑していました。
「貴方は悲惨な出来事を世界に知らせなくてはいけない使命があるので、とにかくシャッターを切れ」と言った覚えがあります。
自分の使命って何なんだろうと真剣に考えた時間だったと思います。
49日になってくると被災地も大分落ち着いてきて、御遺体の数も減ってきました。
被災地の追悼行脚して歩こうと呼びかけました。
南三陸町の海蔵寺というお寺(親戚)は津波から逃れられて、沢山の遺体が運ばれたところで、そこを起点に歩こうと呼びかけました。
牧師さんにも一緒に歩かないかと呼びかけ一緒に歩きました。
瓦礫の山が見えてきて、自衛隊が遺体の捜索をやっていました。
海岸が近付くにつれてお経が読めなくなりました。
讃美歌も歌っていた人達もどういう讃美歌を歌っていいかどうか判らなくなってきていた。
海岸の風景はこの世に神様だとか仏様はいるのだろうかというような、そういう問いがしみ込んでくると言うか、どう解釈していいかどうか判らない状況でした。
呆然と立ちつくしていました。
自分の立場とか法衣を脱ぎ捨てて、一求道者として被災地に入ろうと決意しましたが、何をやろうか判らなかったので、あるところに炊き出しに行きました。
被災地では医療機関がほとんど駄目になりました。
避難所には200人ぐらい居ました。
そこにきていた国境なき医師団の若いお医者さんが責任者に胸倉を掴まれて、「貴方達が次のところに行ったら、この年寄りたちはみんな死んでしまう、どうするんだ」と
必死になって叫んでいました。
若い医師はほんとうに困惑していました。
炊き出しだったら誰でもできる、宗教者だったら何ができるのだろうと二つ目の問いが廻り出しました。
生き残った人は医者に命を託している、宗教者は命だったら心、心に向き合おうと強く思いました。
傾聴活動、心に寄りそう活動という事で、「傾聴移動喫茶」「カフェ・デ・モンク」を始めました。
我々求道者に文句を言ってほしい、そういうメッセージでした。
尺取り虫が泥をはう様に情報を集めながら慎重に(入れるような場所と入れないような場所があるので)選びながら活動を続けました。
私たちに向けられた言葉は「どうして俺は生き残ったんだ、俺が生き残ったのには意味があるのか」、「誰が生と死の境を決めているんだ」とか遺体が見つからない空虚な心が向けられてきました。
宗教者としても逃げ出したくなるような思いでした。
最初の1年はそういう状態が続きましたが、49日の時に歩いた被災地の追悼行脚をもう一度歩こうと牧師さんを誘って歩きました。
以前はヘドロと御遺体の臭いと、何とも言えない雰囲気の中を歩いて行って、崩れ落ちる自分たちを見付けましたが、1年後に歩いていると、途中から風吹いてきて磯の香りがしてきたんです。
海が蘇っているなあ再生しているなあと感じました。
死には一人称の死(自分の死)、2人称の死(大切な人達)、3人称の死(社会の人達の死)の三つあるが、あの再生の風を感じた時にはさらに大きな人称、超人称というふうに思った時に、だからこそ人は必ず立ちあがることができると言う事、それが確信だったです。
この活動をずーっと続けて行こうという、そこ覚悟がその時できたと言うことは間違いないです。
大体320回位やっているが、合わせると2万人位になると思います。
3年目ぐらいの時に、海岸にある20世帯ぐらいの仮設住宅から手紙が届きました。
子供と一緒に津波から逃げる途中に、子供だけが津波に持っていかれてお母さんだけが残った方からの手紙でした。
自分を責めて責めて1年目は子供の遺骨の前で寝ていて起き上がる事が出来なかった。
2年目は無理やり立ち上がろうとした。
3年目は心の病になってしまって、リストカットはする、眠れない、食べれないと言う日が続きました。
私たちの活動を聞きつけて救いを求める手紙が来ました。
直ぐに電話をして、必ず行きますと言って3日後に行くと言う連絡をしました。
3日目のその朝に電話をしたが出ませんでした。
行く途中に旦那さんから電話があり、妻が睡眠薬を大量に飲んで自殺未遂をした、という事でした。
今日は来ても居ないので、今日は来てもらわなくてもいいと言う話でしたが、家に伺いました。
一命は取り留めていて、連絡をして10日後にまた行きました。
あったときには目はうつろでした。
彼女から最初に出た言葉が「和尚さん、私の子供は今どこにいるの」という言葉でその言葉が出るまでだいぶ長い時間がかかりました。
私も暫く沈黙していましたが、「おかあさんあ、貴方だったら何処にいてほいいと思う」と問いかけました。
沈黙がずーっと続いて、10から15分してから「和尚さん、お花が咲いていてさ、光が一杯あふれているそういうところにいて欲しい」と言ってきました。
そこまで至るのに1時間ほどかかりましたが、言葉ではほんの少しですがとても濃い時間を過ごせました。
そこにいる様に和尚さんもお祈りするからと言って、それから彼女とずーっと付き合いました。
次に行った時に一枚の絵を渡され、光があふれて花が咲いている絵で、「こういうところにいてほしい」と言っていました。(お寺に飾ってあります。)
臨床宗教師と言う輪郭がはっきりし始めました。
自分たちの教義とかを一旦脇に置いておいて、相手の価値観に立ってその人に寄り添いながら、その人の人生の目的を達成するように援助して行く、そのような立ち位置、そういった構想が震災の2年目ぐらいから出てきました。
東北大学に宗教者がよりあって被災地に向き合おうと言う会が出来て、そこに或る医師が代表として調整役をしていました。(岡部健先生)
在宅の緩和ケアの方に行った方で、御自身も震災前にがんの告知を受けて余後1年から1年半という事でした。
自分の命と向き合いながら、在宅医療の将来についてとても深い思いがあったと思います。
宗教者を在宅緩和ケアのなかに、看取りの医療の中に一緒にやりたいと言う思いのある方です。
岡部先生を中心に「実践宗教学寄付講座」と言う講座が立ちあがりました。
その講座で被災地で経験したこと感じたことを伝える役目だと思ってやっています。
最初は教義、教理にこだわる人もいますが、私たちが相手のフレームの中にはいっていかなくてはいけなくて、ベクトルが逆なので、皆さんとまどいます。
この人はこういう場所に行きたいんだと、言葉の意味を消化しながたら、それにそって自分達も歩いてゆく、未来に向かって歩いてゆく力を見付けてあげると言うのが私たちの役目だと思います。
ややもすると死へ落ちて行く現場は、負のエネルギーが強くて、死はどうしても敗北感がある、しかし死にも意味がある。
一人一人の死には意味があると言う事を臨床宗教師が言語化して、プラスに変えていかないといけない、それが臨床宗教師の大きな役割だと思います。
宗教者は大自然に試されるなというふうに強く思います。
宗教者を成熟させて行くのは苦悩、悲しみだとつくづく思います。
日本の国は災害立国で、地震、津波、火山と向き合いながら、それぞれの生活文化をはぐくんできたのかなと思います。
少なくとも10年は這いずり回ろうと思っています。
復興住宅と町内会がうまく混じり合うようなつなぎ役を果たせばいいと思っています。