2019年3月21日木曜日

三木善明(元 宮内庁掌典補)        ・「宮中祭祀に仕えて」

三木善明(元 宮内庁掌典補)        ・「宮中祭祀に仕えて」
70歳、皇室の祭祀をつかさどる部署、宮内庁掌典職の一員として昭和48年から28年間使え、昭和の大葬と平成の即位の大礼など、宮中祭祀の伝統を守り伝えて来ました。
神社の家に生まれ育った三木さん、京都御所に出仕していた24歳の時、皇居で働くことになりました。

普段は白い着物と白い袴、白衣白袴と言います。
権禰宜(ごんねぎ)の場合は青い袴を付けます。
皇居での神職の仕事は色ものはありません。
色が着くと言う事はそれだけ人の手の手を経ると言う事なんで、穢れが多くなるという考えがあります。
今上陛下が4月30日に、皇太子殿下に譲位されると言う事で、5月1日に天皇の位につかれます。
天皇陛下が変わられても宮中のお祭りは脈々と続きます。
退位は譲位という言葉が正しいと私は思っています。
践祚(せんそ)は「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味する。
神職に付いている人は「践祚」が一般的です。

昭和46年に宮内庁京都事務所で認容されました。
昭和47年に第88代の後嵯峨天皇山稜700年祭が京都で行われました。
その時に私の出身が神社であることが判って、掌典職の人が足りないので来てくれませんかと言われて、48年に3月に行くことになりました。
実家は御香宮神社です。
宮中三殿は、皇居の西側、吹上御苑の一角にあり、およそ2200坪位の敷地があります。
宮中三殿は、賢所(かしこどころ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の3つがあります。
賢所(かしこどころ)は皇室の先祖である天照大神がお祭りされています。
皇霊殿(こうれいでん)は歴代の天皇陛下と皇后陛下初め皇族の御み霊(おみたま)およそ2千数百をお祭りしています。
神殿(しんでん)は日本中の神々、八十万神(やそよろずのかみ)、全ての神々をお祭りしている御殿です。
総檜作り、屋根は銅板葺きです。
天孫降臨という、天照大神の孫邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。
天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。
『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。
それ以降天皇陛下がお祭りをされると言う事で、住まいの御殿にお祭りをされていたが、第10代崇神天皇(すじんてんのう)の時に、そこでするのは畏れ多いと言う事で、大和の笠縫邑に祭られました。
第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の時に伊勢の五十鈴川(いすずがわ)川上にお祭りをされました。
これが現在の伊勢神宮の内宮様になります。
全く同じ御鏡を作りまして、別の御殿でお祭りをされましたのが、賢所(かしこどころ)になっています。

皇霊殿(こうれいでん)はもともと京都御所時代はお黒戸と言うところで、女官が仏式でお祭りをされていました。
明治になって国家神道、廃仏毀釈になって、仏式でお祭りをしていたのを神式に改めました。
それで皇霊殿(こうれいでん)を作ったわけです。
神殿(しんでん)は京都の吉田神社でお祭りをされていました。
明治天皇のおぼしめしで皇居に移され神殿(しんでん)が作られました。
三つの部屋があり内々神に神様がお祭りされていて、内神は天皇陛下がお参りをされる場所、その外に下神があります。
宮中三殿をお守りするのが、掌典職の職員の人達です。
私がいたころは23人居ました。
掌典長が1人、掌典が6人、掌典補が6人、出仕が3人、女性で内掌典が5人、雑仕が2人という構成です。
天皇陛下の私的機関で、掌典補だけは国家公務員です。
歌会始の事務全般を掌典補がやります。

平日は8時半から5時までの勤務になります。
宿直の時は午後5時15分から翌朝8時30分までとなります。
神様というより貴い方がお住まいになっているという考え方で対応させていただいています。
明治の建物なので火災には気を使っています。
年間60回位の祭祀があります。
皇霊殿の御祖先のお祭りもあり、御命日に行います。
毎月1日11日21日に旬のお祭りもあります。(35回/年)
大嘗祭は天皇陛下が即位された最初の年に行う新嘗祭をいいます。
新嘗祭(にいなめさい)は11月23日に、天皇五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食べ、その年の収穫に感謝する。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われます
2月17日に祈念祭 としごいのまつり、一年の五穀豊穣などを神様に祈るお祭りがあります。
そしてお陰さまで立派なものが獲れました、どうぞお召し上がりください、と言うのが新嘗祭です。
お願いと御礼の表裏一体なんです。
天皇陛下が自らお供えになる。(新嘗祭)
正座で2時間で2回、合計4時間行います。
気持ちを入れないといけないので大変です。
皇太子も同席しますが、ずーっと同じ姿勢です。
国が平和で繁栄しますように、国民が安寧に幸せに暮らせますように、とお祈りします。

一番大変だったのは昭和天皇の大葬であり、今上陛下の大礼をどうするかという事でした。
一番ネックは天皇陛下がお元気なころに大葬の研究をすることは不敬であると言う事で、隠れてやるしかない。
昭和26年に亡くなられた大正天皇の皇后さまの記録がありましたので、それを書きうつすことから始めました。
その後大正天皇の大葬の記録にかかりました。
当時掌典次長をしていた前田利信 (旧富山藩主前田家15代当主)さんに頼んでその記録を貸していただきました。
200冊位ある膨大な資料で、墨で書かれていたのを原稿用紙に書き写しました。

平安時代から続く儀式で、「斎田点定の儀」では、宮中において、亀甲を焼き、その焼け方によって神意を伺う「亀卜(きぼく)」が行われる。
悠紀殿供饌 (ゆきでんきょうせん) の 儀 ・ 主基殿供饌 (すきでんきょうせん) の 儀 があり、悠紀殿と主基殿にお供え物をします。
お供えのお米を悠紀田、主基田から獲れたお米からお供えします。
悠紀の国、主基の国を選ぶのに「亀卜」といって亀甲を焼き、その焼け方によって決めます。
アオウミガメの甲羅を手に入れないといけないが、何処に声を掛けていいか全く判らなかった。
小笠原で養殖しているのを聞いて、探していただいて自然死した亀を送っていただきました。(130cmの長さが必要)
昭和63年9月病気回復の記帳に来た人の中にたまたま「亀卜」の細工を作ったと言う人が来ました。
はぼ60年ぶりに作っていただき、無事におさまりました。
うわみずさくらを燃やしてその上に亀の甲羅をかざすと、うまくヒビが入ってそのヒビによって吉凶を占う訳です。
桜も探して吉野から送っていただきました。
その時これだけ国民が思って下さるなら大嘗祭は成功すると思いました。 
自分が受け継いだものだけは変えないで伝えていきたいと思います。