講談師 神田蘭
国民的代表作家 夏目礎石
講談による紹介
『本名、夏目 金之助、慶応3年1月5日 江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)夏目家の8人兄弟の末っ子として生まれる。
生れて直ぐ里子に出され、翌年には別の処に養子に出される。
8歳の時には夏目家に戻るが、幼少期に受けた孤独感というのは後の彼の人格構成や小説にい大きな影響を与えたのかもしれない。
漱石は沢山の名作を残している。
「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「虞美人草」[こゝろ]と枚挙にいとまはないが、漱石が作家としてデビューしたのは38歳、彼は49歳で亡くなるが10年間という短い間のこれらの名作を生みだした。
38歳まで何をやっていたのか。
明治16年26歳の時に東京帝国大学を首席で卒業し、英語の教師として松山に赴任する。
松山というと正岡子規の故郷、病気療養で帰って来たおよそ2カ月同居していた。
この時に子規から俳句を熱心に学ぶ。
子規が東京に戻って行く時に漱石の句が「お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花」
漱石に子規は「行く我にとゞまる汝に秋二つ」と返す。
文部省の命で英語研究の為イギリスに留学することになる。
当時イギリスは家賃も高く本も高い、お金がたりずにままならない。
異国の慣れない生活にたたったのか神経衰弱に罹ってしまった。
漱石は「最も不愉快な2年間なり」、「このことが余をかって創作の方面に向かわしめた」と語っている。
イギリスから帰国後、神経衰弱がなかなか治らない。
高浜虚子が、気分転換に文章を書いてみませんかと声を掛けた。
この時に書いた小説が、猫を主人公に書いた小説「猫伝」、後の「吾輩は猫である」だった。
雑誌「ホトトギス」に掲載されると、人気を博して一冊の本として出版されると20日ほどで売り切れた。』
塩原さんの遺影に養子に行ったが、養父、養母の仲が悪くて、あまり落ち着いて日常生活は送れなかったようです、だから苦労したんだと思います。
3歳頃に罹った疱瘡、顔に疱瘡の痕が残ってしまって、自分の顔に凄いコンプレックスを持っていたようです。
12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の東京都立日比谷高等学校)に入学する。
友達には恵まれて中村是公など、生涯に渡る親友に巡り会っている。
大学予備門(のちの第一高等学校)に入る。
漱石は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公と共に落第する。
卒業まで首席で通した。
漢文が得意だったが、帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科に進む。
英語は何かを学ぶ時の方法として英語は勉強していいと言うふうな風潮があったようだ。明治26年帝国大学卒業後、大学院に入って、東京師範学校の英語の先生になり、その時の校長が嘉納治五郎でした。
明治28年に松山で愛媛県尋常中学校教師として赴任。
明治29年に熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)
当時は熊本が九州では中心になっていた。
明治33年5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられる。
最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。
1901年、明治34年 ビクトリア女王が亡くなり、葬儀にあって下宿屋の親父さんの背にまたがって、行列を眺めたそうです。
イギリス留学に当たっては正岡子規との二度と会えないのではないかという別れがあった。
漱石の名前は、本来「流れに口を漱いで石に枕す」でなければいけないが、或る人が漱石、口に漱ぎと間違えて言ってしまって、間違っていると言われたが無理やり意味を付けた。
石に漱ぐでいいんだと言う事で中国では漱石は頑固者と言うことになる。
自分にぴったりだと思ったのかもしれない。
英国留学から帰国後、1903年には第五高等学校教授を辞任、同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる。
1905年「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。
『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、1907年に教職を辞して朝日新聞社に入社。
同年6月、職業作家としての初めての作品「虞美人草」、「坑夫」,「文鳥」、「夢十夜」,「三四郎」と次々に連載。
正岡子規もそうだが、漱石は食べることへの執着がありよく食べるんです、とくに甘いものが好きでした。(ジャム一瓶舐めてしまう。)
酒は飲みませんでした。
人格的には魅力的な方だったと思う、次から次へといろんなひとがきて、それがそうそうたるメンバーだった。
漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉・森田草平などが出入りしていた。
門下には内田百閒・野上弥生子、寺田寅彦・阿部次郎・安倍能成などの学者がいる。
1910年、明治43年胃潰瘍のため内幸町長与胃腸病院に入院。
療養のため修善寺温泉に転地。同月24日夜大吐血があり、一時危篤状態に陥る。
1911年 文部省からの文学博士号授与を辞退
1915年(大正4年)芥川龍之介や久米正雄といった人が門下に加わる。
1916年 「明暗」を朝日新聞に連載中に未完の作となる。
12月9日 - 午後7時前に、胃潰瘍により死去。(49歳)
今でもみんなに読まれている。
普遍性みたいなものを持っている。
自分のにやりたい事、出世することがぴたっと会うような山縣 有朋みたいな人はよかったかもしれないが、今回取り上げられなかったが、乃木希典などは本当は詩人になりたかったんじゃないかと思います。
森鴎外などは強い気持ちを持ってふたつの自分を生き抜いた。
夏目漱石は途中でおりて、難しいと思います。
今は恵まれた時期だとは思います。
今回で最終回 (24名)