2019年3月22日金曜日

大竹昭子(作家)             ・【わが心の人】須賀敦子

大竹昭子(作家)             ・【わが心の人】須賀敦子
須賀敦子さんは昭和4年兵庫県芦屋市生まれ、昭和33年からミラノに暮らし、日本の近代文学をイタリア語に翻訳し、イタリアの人達に紹介しました。
日本に帰国してからは、大学で教えながらイタリア文学の翻訳などに取り組みます。
平成2年イタリアでの体験をもとにした初の著作 「ミラノ霧の風景」で注目されます。
平成10年3月に亡くなられました。(69歳)

亡くなってからファンが増えてきて、段々若い人のファンが増えて来ました。
「ミラノ霧の風景」が出た時には吃驚しました。
インタビューをしたのをきっかけにお付き合いさせていただきました。
須賀さんは自分の過去のことについてあまりお話にはなりませんでした。
職業作家とは違って、自然と書くことが自分で書くことが必然であって、その切迫した思いが形になったのが60歳を過ぎてからで、生きることへの思い、もどかしさ、困難、そういう事が行間に溢れているわけです。
素晴らしい文学作品だけではなくて、須賀さんが生きてきた道を知りながら読む事によって作品をより深く読めるし、それが須賀敦子という作家を本当の意味で知ることになると感じました。
「ミラノ霧の風景」で女流文学賞を受賞することになりました。
自分の体験を蒸留して、どのように文章として伝えるか真剣に問うて書かれたものので他にはない文芸作品です。
ジャンル分けを虚しくさせてしまうほどの文芸書だと思います。

『コルシア書店の仲間たち』が出た直後に、話を伺いに行きました。
一見静かで控えめな態度ですが、親しくなると物凄くお茶目でユーモラスでお喋りです。
言葉の世界を豊かにもった方です。
あっという間に現れてあっという間に亡くなられました。
ミラノ、ベネチュア、ローマ 同じ風景の処に身を置いてみたい思いと、作品の中に出て来る地名、固有名詞を全部リスト化してその場所にいったり、人物にお会いすると言うような形を取りました。
土地を知ると言う事は作品の理解に繋がるし、豊かな旅でした。
須賀さんの作品の中から最善のものを引き出そうと言う覚悟を持って旅をしました。
写真と文章が一緒になっていて、ガイド的な意図をもって本を作りました。
帰国後から書き始める時間の方がずーっと長いので、一体どうしてこの人は時間を過ごしてきたんだろうと思いました。
「書きたいと思っても書けなかったのよ」とインタビューの時に言っていました。
過去の仕事を含めて一番自分で気になっていたことに、答えなければならないという思いがあったのが「須賀敦子の旅路」という本です。
前に書いたミラノ、ベネチュア、ローマの後に、東京での日々を取材して新たな一冊が生まれました。
ようやく宿題が終えたと言うような思いでした。

須賀さんは日本に帰ることに関しては思い悩んだと思います。
長い間外国に出た人にとっては日本はしんどいところだと思います。
新たに仕事を見付けなければいけないので、悩まれたと思うが、帰ってきてよかったと割に直ぐに新聞取材で言っていました。
戦争に突入して、戦争をくぐりぬけて、戦後日本はどうやって生きていけばいいのだろうと、国として日本人としてと言うような問いを、せざるを得なかった世代ですよね。
みんなが同じ方向に歩かされて、戦争に突入してもそのことに声をあげられなかった、そういう姿をどのように変えてゆけるか、考えざるを得なかったと思うので、私たちの世代とは違う使命感はあったと思う。
日本に帰ってくることによって、自分がこれまで考えてきたことを実現できるという確信を持っていかれたのではないかと思います。
13年暮らしたイタリアから42歳の時に日本に帰ってくる。
「ミラノ霧の風景」で私たちを吃驚させる、その間20年余り、知らない事がいっぱいあります。

大学の教授として仕事をする。(50歳過ぎて)
翻訳、通訳などもこなしていた。
カトリックの団体でボランティアを束ねる事もやっていました。
社会に具体的に関わりたいと言う思いが強いし、身体を使いたいと言う思いがあったようです。
戦後間もなく大学院まで行っていましたが、結婚というよりも学者の道を歩むのが当然なわけですが、作られた道を歩むのはどうしても厭だと言っていました。
道は自分が切り開くものであって、社会が作った或るルートに乗っかることは、生きることではないと言う強い思いと確信があったと思います。
自分のどうしても気になる生きると言う事、自分にとって必然の意味を探るために勉強していると言う事はどうしても譲れなかったと思います。
なので当然廻り道になるわけです。
60歳になって自分の生きる道を探ることと、社会に対して自分を表現するものが文学において一致した処が貴い長い道のりだったと思います。

美しい文章だといわれるが、ああしか書けない、決して美しく書こうと思ったことはないと須賀さんは言っていました。
必然から出た美ですね。
自分のまわりで亡くなる人が出てきて、死者の世界が近くなった時に、初めて自分が書く意味を見出したところもあったのではないかと思います。
追憶すると言う事が自分にとって自然にできた時に、文章が流れ始めたと言う事はあったと思います。
イタリアにいる頃詩も書きましたが、やめて散文家としてデビューされました。
それも謎に残ります。
日本の文学もイタリア語に翻訳して紹介していました。
1965年に出した日本現代文学集には25の文学作品が紹介されています。
夫ジュゼッペ・リッカと協力して、夏目漱石・森鷗外・樋口一葉・泉鏡花・谷崎潤一郎・川端康成・中島敦・安部公房・井上靖・庄野潤三などをイタリア語訳。
後半の作家の作品はあまり知られていない作品が紹介されている。
イタリアでは手にするのが困難なものをどうして本、資料を集めたのか、そしてどうしてその本を選んだのかも謎です。
この本によってイタリアの若い世代の日本文学ファンが育ったんです。