米田佐代子 |
「米田」:東京都立大学人文学部卒業後、同大学助手、千葉大学・専修大学・一橋大学等の講師を 経て山梨県立女子短期大学教授、2000年3月定年退職。専攻は日本近現代女性史 |
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平塚らいてうを中心に近代日本の女性運動と女性思想を研究、女性学、ジェンダー論、男女共同 参画問題等でも発言 |
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実生活では共働きで二人の子を育て、保育運動・学童保育運動・PTA活動・親子読書会などに参加 、今は高齢者施設のボランティアにも参加。総合女性史研究会代表もつとめた |
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現在は、「NPO平塚らいてうの会」会長兼、2006年に長野県あずまや高原に完成した「らいてうの家」 館長として、東京と長野を行き来している |
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話の内容は主に「青鞜」に関する事、平塚らいてうの事、婦人問題の事 「旅の7日間」 「夕焼け」 「三つの目」について等の感想、説明 |
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「青鞜」 ブルーストッキング イギリス社交界女性が青い靴下を目立つように履く・・・これがもとになり 「青鞜」と云う雑誌の名前になる |
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青鞜(せいとう)は、1911年(明治44年)9月から
1916年(大正5年)2月まで52冊発行された、 女性による月刊誌主に平塚らいてうが、末期だけ伊藤野枝が中心だった。 |
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『文学史的にはさほどの役割は果たさなかったが、婦人問題を世に印象づけた意義は大きい』との 論もある |
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日本女子大卒業生が5人集まって出版 | ||||||||||
新しい女性と言うことで非難さ れる |
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創刊の辞 後の方に掲載 「元始、女性は実に太陽であった 真正の人であった 今女性は月である 他に依って生き 他の光によって輝く病人のやうな蒼白い顔の月である |
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私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や 取り戻さねばならぬ」 | ||||||||||
平塚らいてうは森田草平と心中未遂をする(作家の卵) 私の主人は私自身である 自分の力で立ち あがってゆく |
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「自分は新しい女である 少なくとも真に新しい女だと日々長い日々努めている 真にしかも永遠に 新しいのは太陽である |
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自分は太陽である 少なくとも太陽でありたいと日々願い、日々努めている 新しい女は今美を願わない | ||||||||||
善を願わない ただ今しらぜらる王国を作らんがために自己の尊き天職の為に力を力をと叫んでいる」 | ||||||||||
当時のメディア、等は新しい女とは何事かと非難する | ||||||||||
自分が選んだ道はどうなるかわかりません でも行きつくところまで行ってみよう・・・らいてうの一生 を貫いていた |
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後ろを向いてしまっては駄目 らいてうは発していた 地べたに落っこちてもいいから前に進もう | ||||||||||
母親になって子供はいとしいと思い、子供を守らなくてはいけないと思いそのためには子供を守る 権利が必要であると |
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市川房江氏とともに「婦人参政権」に取りむ |
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1914年「旅の7日間」 | ||||||||||
「四六時中共に一緒に在りたいと思うのは全ての人の心であろう 私もまたそうであろうと願っている けれど自分は朝から晩まで |
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同じ部屋にいて自分の愛する者と顔と顔とを合わせていることには、耐えられない 机を並べて一緒 に読書をしていたり書き物を |
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することも自分には出来ない 自分は本当に人を愛することが出来るのだろうか 又本当に人の愛 を受け入れられるのだろうか |
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私は愛しつつある瞬間においてさえ折々そういう疑問に悩んでいるのを知っている 自分は人を たった一人の人さえ愛することが出来ないのを |
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悲しんでいる 咎めている そしてどうかして本当に愛そうと努力している けれど一方には人を 愛し人から愛されることから逃れようといつも |
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願っている自分があるようだ」 | ||||||||||
奥村博史と恋に落ちる 暮らすことにした 思ったことを表現してしまう お互いに距離を置く事は要 |
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子供を産みたくなかったが、結局生むことになり、母性の素晴らしさに気がつく 他愛主義・・・これこそ 人生人間の生き方であると思う |
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母親になったことが参政権の原点 (戦争を男たちが勝手に始めた)女達は子供を守る為に活動する でしょう |
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らいてうの言葉「私は永久に失望しない」・・・よその子を大事にしてくれる人が増えてくれば私は安心 だ私は永久に失望しないでしょう |
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→それが日本が平和で子供たちが幸せに育ってゆく道 | ||||||||||
「夕焼け」1925年 | ||||||||||
「瞬間の尊とさよ 夕餉の後始末を台所でゴトゴトとしているうちに あの夕焼けはもう消えちゃった 冷たい冷たい空の色 |
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何故私はもっと気軽に何もかも、うっちゃって野に飛び出さなかったんだ」 | ||||||||||
ああ 私はあくせくしすぎていた 消えちゃう瞬間に何故夕焼けをしっかり見る余裕はないのか | ||||||||||
当時 老人ホームを作ろう・・・新鮮な考え方(当時 家の人達、嫁の役割) 共同の世界をつくるのに 女性の力が必要 |
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1951年「三つの目」 ①私たちはいつも現実を見る鋭い目 ②はるかな未来を見通す永い目 ③心の内側を凝視するかつて瞬きをしたことのない深い目 |
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この三つの目を持って生きてゆきたいと思います | ||||||||||
85歳で亡くなる | ||||||||||
9/1が「青鞜」発刊日 発刊100年を長野上田で行う |