2015年1月29日木曜日

中宮紀伊子(老舗和菓子店女将)    ・人を育て、店を育てる(1)(H26.11.16放送)

中宮紀伊子(老舗和菓子店女将)   ・人を育て、店を育てる(1)(H26.11.16放送)
石川県金沢市の老舗和菓子店の女将 徳川3代将軍家光の頃、加賀藩では前田利常公が藩を治めていました。
江戸城で行われる宴に新しい茶菓子を依頼され、藩主と共に作った落雁が絶賛され、森下八左衛門は今から390年前、寛永2年菓子製造業になりました。
以来伝統菓子を守り続けてきましたが、バブル時代の過大投資が仇となり、平成に入ると経営危機に見舞われます。
平成7年金沢地方裁判所に和議申請を提出し、それからの10年近く再建にむけあらゆる努力をしてきました。

「あなた、私も闘います」 他2冊本を出版
「あなた、私も闘います」は15年前 当時は一生懸命に毎日過ごしていました。
和議申請 経営不振に陥った会社が社長はそのまま残ってもいいが、銀行からお金は借りられず、自主で再建してゆけば、社長は残ってもいい、と言う事です。
審査されて和議を受理してくれる。
収入は弁護士が管理、給料など払う。
出来るのかどうか、本当に心配だった。
何も食べれなくて、眠れなかった。
やっぱり子供が心配でした。(娘2人)  平成5年  子供がいたから頑張れたのかもしれない。

とことんやって駄目だったら仕方ないと思ってやりました。
1625年 寛永2年創業の老舗 多額のお金を銀行から借りた。(バブル期)
危機は突然やってきた。
和議申請時、店に出て3カ月の時だった。
私は岩手県一関出身、父の関係で東京に来て、転々として、江戸川区北小岩で育ちました。
柴又帝釈天が近い。 遊び場はもっぱら帝釈天、江戸川の土手で、遊びまわっていました。
高校までいました。
結婚が決まってから金沢に一度遊びに行ってみようと思った。  
街がゆっくり流れていて昔の建物があり、食べものが多く美味しい。
前田家のおひざ元という事で、皆さん嬉しく思っていらっしゃる。

伝統工芸が素晴らしい。
落雁 長く生きる殿と彫ってある。
三代藩主の前田利常公が「長生殿」と名づけた。
小堀遠州が彫った字なんです。
徳島の和三盆に加賀米を混ぜて、蜜で湿らせて木型に入れて打つんですが、白と赤が有るが、赤は本紅を使っている、山形県の本紅。 金と同じ値段と言われていた。
外部から入った会長から店に出てはと言われて店に出るようになった。
お金の計算は駄目なので、営業、接客を専門としている。
経営は、私は主婦だから1つの材料でいくつできるのかと思うので、その考えを経営に持ち込んだ。
又来ていただくにはどうしたらいいのか、と言う話を店の人間にします。
経営者と働く人たちが離れ過ぎていた、経営者の思っている思いを、経営者が伝えていなかったのではないかと思う。
400年近くやっていると、段々ずれが有って、殿様用から売るようになって、変わってゆく必要が有ったと思うが、それが判らなかったと思う。
会社が和議申請という事から眼がさめて、変わろう変わろうと思いました。
社員、お客さん、子供のためと、私のためにものを考えたくないと単純な思いがあり、それを実行しました。

仕入れからすべて現金決済だったので、一つ一つが大変だった。
いろんな小物(ボールペンとか鉛筆とか)が落ちており、もったいないと思った。
社員の皆さんにボールペンなどを自分で持ってくるようにした、そうすると大切にする。
子供は親の頑張っている姿を見ているせいか、自分の生き方、目標をしっかり持ちながら今は大きくなりました。
闇金融から借りたこともあり、子供が心配で、私の実家に預けたこともある。
学校に行きたいという事で、主人が送り迎えをしたりして、高校なら大丈夫と思って、止めたら何故送り迎えをしてくれないのと言われて、高校でも送り迎えをした。
子供は高校2年の時に、将来の目標をきちんと決めて、デザインの専門学校2年、デザインの仕事3年、その後に和菓子職人になりますと言って、実際その通りにやってきた。
経営は私たち夫婦には出来ても、和菓子はできないが、娘は和菓子を毎日作っています。
和議申請、主人はお坊ちゃまだったので、大きな試練に対し心配だったが、二人で乗り越えることできた。