2015年1月23日金曜日

並木秀之(投資会社顧問)      ・生きていれば人生はひらける

並木秀之(投資会社顧問)            ・生きていれば人生はひらける
埼玉県熊谷市生まれ 61歳 生まれつき脊髄に重い障害があり下半身が不自由です。
小学校5年生で母子家庭になり、経済的に余裕のない生活でしたが、高校時代アルバイトでお金を貯め、大東文化大学法学部に入学します。
大学の教員を目指して卒業後は法学研究所に進みますが、夢が実現できず、公認会計士事務所で働く様になります。
社会に出た並木さんは思い込みをすてて、自分を見つめ直し、自分が得意とする分野で道を切り開いていきます。
35歳で独立し、会社を設立しましたが、その後次々に癌を患い、何度も余命宣告を受けました。
しかし再び立ち上がり、今の投資会社を設立したのです。
並木さんが困難を乗り越えて生きてきた中で見出した信念、生き抜く力について伺いました。

15年前友だちと一緒に共同出資して作った会社。
外資系銀行に務めていて、合併があり、入らなくなった子会社を購入した。
投資の金額は一般的には天文学的だと思われるが、業界では小さな金額で、其れが私のもともとの守りのスタンスが影響している。
今は顧問的な立場でやっている。
確実に収益を上げていこうと言うような発想で、相克があって皆さんとは別れて独立したりしていて、会社は大きくなったとは言えず、成功者と言えるかどうかわからない。
現状にはホッとしている。

脊髄分裂症で杖をつきながら、前向きに勢いをつけながら歩いている状態。
生まれた時から脊髄が割れていて、そこから髄液みたいなものが皮膚を通して出てきて、足が不自由なことと、神経がやられているので、排泄がコントロールできないという障害を持って生まれた。
排泄の障害があるのに障害がない様にして、小学校では振舞っていた。
漏らしてしまう事もあり、自宅までの間に、わざと転んで泥水の中に入ってしまって、お尻を漬けて泥水に入ってしまったんだから、茶色になっているんだと周りに思わせたい、そこまで取り繕った。
精神的な疲れは相当なものだった。
高校の時に友人に話したが、友人たちは理解してくれたので、楽になった。
こんなに楽な気持ちになるのだったら、もっと早く話していればよかったのではないかと思った。
祖父母、両親、弟 6人家族だったが、小学校1年で祖父、3年後祖母、5年後父が亡くなり経済的にも厳しくなるが、2つの経験をしたことによって、そのあとに色々起こったことがそんなに大きな問題で無く乗り越えることができたと思う。

或る言い方をすればエゴイスティックに自分が置かれている環境がこういう環境だから、その中でどういう選択をすれば自分に得かと意識しながら選んできて進んできた行為だと思います。
母を少しでも助けるのには時給も高い仕事をしたいと選んで行った。
友だちにも迷惑をかけた。
熊谷でキャディーをやったが、ゴルフクラブからすればやらしてみたが、やはりまずいという事で中止するようにおっしゃって、他に何かやれることはないかと、グリーンに水を撒く仕事を依頼された。
自分があってる事をやるのも、一つの方法で、自分の欲ばかりに惑わされるのもよくないのではないかと、仕事を選ぶうえでの社会の仕組みも判った。
足が不自由だったから、早く気付けたので後々の生き方にとっても、有利に働いたと思う。

大学教授になりたいと、自分の様な身体には良いと思ったが、それほど勉強が好きではなかったので、巧くは行かない。
研究室に入って1,2年で悶々としてしまって、辞める直前のころは、家をでたら近所の人に将来のことを聞かれない様に、駅まで自転車を飛ばしていた。
公認会計の事務所に就職できた、ほかには選択肢がなかったので。
周りを見たら一流大学の人が多くて、自分が勤め仕切れるのかなという不安が出てきた。 
たちいけなくなった経営者が債権者への説明会があって、土下座をして先ずはお詫びする事があり、債権者から怒号が飛んだりするような状況の中なので、一緒に行った先生は手がふるえていた。
私としては自分が震える必要はないのではと思っていて、他の人は嫌がっていて、私としてはこの仕事ができるのではないかとふっと思った。
自分の居場所がはっきりできるのではないかと思った、又事務所でも重宝がっていただいた。

小学校、中学校で本当で無いことを本当に見せて、無駄な努力をしてきて、そういう時の辛抱が身についていたんで、そのことと比べれば、大変なこととは感じられなかったので、大上段に構えてやったわけではなく、自然にできた様に思う。
自分で望んでやったことに対しては失敗していて、万策尽きてそれしか選択が無くやった仕事で、仕事をしているうちに自分ができることがあることが判って、其れをやれば皆さんにも喜んでもらえるという事が判って、自分の居場所が見つかった。
自分の希望するものはどうしても自分の欲望との裏腹になってしまうことが多いのでは。
行き詰っまた企業を再建する様な仕事のコンサルティングの会社を始めたが、コンサルタントと不動産業の免許を取って始めたが、バブルの時代だったので、不動産を処分する様な行為が付いて来たので、やればやるだけ収益になり、仕事が楽しかった。

疲れてはいない様に思っていたが、最初膀胱癌が発生した。
40歳までの間に、肝臓がん、皮膚がん、前立腺癌、40歳で白血病に襲われる。
膀胱がんの転移だとおもわれる。 早期発見だったのでラッキーだった。
白血病の時は今度は無理だという事を言われた。
それまでも常に死とは隣り合わせに在ったので、先生に告知されたとはいえ、悲壮感を持って捉えたことはなかった。
体重は20kg減って、集中治療室に意識が無くはいった。
1年は断続的に熱がでて、おさまって回復するまで、病院の中でぶらぶらする事が半年余りあった。
体験、経験が役に立って、乗り越えることができた。
貯蓄もゼロになり、退院してから生活保護を半年間受ける。
外資系の銀行から声がかかって、銀行の仕事をして、その後投資会社の顧問をするようになる。
生きてさえいれば、自分では想像つかないところで新たな展開が起こり得るが、亡くなってしまったら、色々な展開を全て遮断してしまうので、やはり生き続けるという事が最も大切なことだと思います。
障害や貧困で大学にいけないインド、中国、モンゴル、タイへの若者たちへの支援を奨学金と言う形で行っています。