2022年9月21日水曜日

今中慎二(プロ野球解説者)       ・【スポーツ明日への伝言】 わが投手人生、悔いはあれども後悔なし

今中慎二元・プロ野球投手・プロ野球解説者)       ・【スポーツ明日への伝言】  わが投手人生、悔いはあれども後悔なし 

今中さんは1988年ドラフト1位で大阪桐蔭高校から中日ドラゴンズに入団、プロ1年目に初勝利を挙げると年ごとに勝ち星を伸ばしてゆきましたが、4年目の1992年試合中に打球を投げる方の左手に当ててしまい骨折、一時戦列を離れます。   しかし、そのリハビリの中で磨きをかけたのがスローカーブでした。   復帰後はそのカーブが今中さんの大きな武器になり、翌1993年に17勝で最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得、更に沢村賞を受賞するなど中日のエースに成長しました。  また 今中さんの現役生活の終盤は左肩の痛みとの戦いながらのシーズンが続き、プロ野球選手の成功と苦悩、両方を知る選手でもあります。  現在は野球解説者として活躍中です。  野球人生、ピッチングへのこだわりなどを伺いました。

元々右投げでしたが、兄が野球を始めてグラブを持って行ってしまい、近所のおばさんがグラブを持ってきたのが左用のグラブでした。   そのまま使って投げていたら投げれるようになりました。(小学校2年生ぐらい)    箸、字を書くのは右です。   兄と同じチームに入る事になりました。    大阪府門真市は少年野球が盛んな街で小学校3年生の時にNHKの野球教室があり川上さんが街にきました。  大阪産大高校大東校舎に進学、その後名前が大阪桐蔭高校に変わりました。(3年生の時)   練習も長いし、厳しいし、きつい高校生活を送りました。(1,2年生のころ)    家に帰るのは11時ぐらいで朝は7時には家を出ました。   プロになるなんて思ってもみなかったですが、ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団することになりました。  

練習で投げた瞬間打たれてばっかりで、自分ではだめだなと思いました。    1年目に1勝、2年目に二桁勝利、3年目は12勝。  1年目、星野監督とはコミュニケーションはゼロでハイ、イイエぐらいのことしか言えませんでした。  投手に対しては特に厳しかったです。  上原さんと一緒に怒られに行って、怒られる前に緊張のあまり上原さんは倒れてしまいましたから。  1992年4月19日の巨人戦で、相手の打った打球が飛んできて左手を伸ばして取りに行った時に当たり所が悪くて痛くて、7回まで投げて変わりました。     夜も眠れず、朝病院に行ったら骨折していました。   手術をしました。  リハビリでキャッチボールをしてもちょっと痛くて、カーブを投げると痛くなかった。   肩を作らないといけないという事でカーブでキャッチボールを投げていました。  そのうちに直球も投げられるようになりました。     ブルベンで投げ始めたらカーブが今までとは違っていました。   2軍の試合で投げたら全然打たれないんです。    1軍に入ってカーブを投げても打たれませんでした。  

1993年31試合に登板して14完投17勝、奪三振247、最多勝、最多奪三振、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、沢村賞を受賞。   痛いところはどこにもなかった。  1994年巨人と最後まで優勝を争った10月8日先発しました。  名古屋球場が異様な状態でした。  試合前も試合中も緊張してという事はなかったです。  中日が破れて巨人が優勝することになる。    立ちあがりは余り良くないタイプですが、初回3者凡退でなんか気持ちが悪いなあと思いながらゲームに入って行ったのを覚えています。   2回に投げそこなったのを落合さんからホームランを打たれてしまいました。   同点に追いついて3回インコースに投げたボールが1塁と2塁の後ろに落ちて、打たれた瞬間にホームランよりもショックでした。  そこから自分では冷静ではなくなってしまいました。   後から考えて、松井秀喜が送りバントをしたことも覚えていませんでした。   その経験が、打たれても冷静に切り替えることができるようになりました。   

落合さんは味方にいるころは良く一塁から話しかけてくれて、打者に対するヒントは教えてくれましたが、どこへ投げろとかは一切言わないで、それは投手に考えさせるというような対応でした。   結論は教えてくれないです。  

1994年には多少肩の痛みを感じるようになりました。   翌年キャンプに入るころには不安はありました。  1997年の自主トレからボールが投げられなくなりました。   沖縄でのキャンプでは誤魔化しながらやっていましたが、開幕投手は言われていましたが、1週間前のオープン戦で投げても球速が122kmで、相手チームから真面目に投げろと言われてしまいました。  後で監督のところに行って開幕投手は無理ですと言いました。  1997,8年24試合出場して4勝のみでした。  練習に行くのも痛くて厭だなあと思いました。  福岡の医師に診てもらって、痛み止めの注射を打ってもらったりしながら、1999年に手術をすることに決断しました。  1年はリハビリが必要と言われた。  5時間30分の手術でした。   2001年7試合に登板、このシーズンが最後になる。   先発して駄目だったら辞めようと思っていましたが、そういう機会はなく悔いは残りますが、仕方ない部分は有るので。

11月10日に引退会見、「後悔は有りません、ただ悔いはあります。」という言葉を残しました。    先発をして白黒はっきりしたかったというのがそこです。         13年間で91勝、完封74、奪三振が1129。  最後の5年間は苦しい思いをしましたが、これは後々生きるだろうとは思っていました。   コーチになった時には怪我とか具合いが悪そうな選手のことが理解でき、無理をさせないような対応をしていきました。