平川冽(英語指導者) ・カムカム・ダディを語る
今年3月まで放送された朝の連続テレビ小説「カムカムエブリバディ」その英語の先生「カムカムおじおさん」こと平川唯一の詳しい伝記を息子さんの冽さん(81歳)が書きました。 終戦直後の日本に社会現象までになった「カムカム英語」を広げて国民を元気づけた「カムカムおじおさん」とはどんな人だったのか、又超人気番組はどのように作られ、戦後の日本に何を残したのか息子さんの冽さんに伺いました。
父は岡山県の高梁市の農家の次男として生まれました。 祖父が定次郎と言いまして、米相場に失敗して借金を返済するためにアメリカに出発しました。 父、兄と一緒に祖父を迎えに行きました。 父はアメリカの家庭に住み込みながら17歳で小学校に入りました。 3年間で卒業して次はハイスクールに行って、雄弁大会では準優勝するまでになりました。 その後ワシントン大学に入学して演劇のコースに入って首席で卒業しました。 その後ハリウッドに出て端役までやりました。 イングリッシュアクセントとかアメリカンアクセントの両方を覚えて、後のNHKでアナウンサーをするきちっとした原稿読みも出来るようになりました。 すべてのテキストを自分で考案して作りました。
父は牧師補という免許も取って、その後母親となる人が日本から教育に関する代表で行ったらしいんですが、教会で英語を教えらりするのがきっかけで結婚したらしいです。 1937年19年ぶりに日本に帰国しました。 NHKで海外要員を捜しているという事で、試験を受けてNHKに入社しました。 50人受けて2人が入社できたそうです。
入社して海外へのアナウンサーを7年間しました。 戦争になり、自分の意に反することを放送しなければいけなくて心残りがあったようです。 昭和20年8月15日天皇の玉音放送があり、その玉音放送を父が英語で放送しました。 全世界に流れるので、父はこれほど緊張した放送はなかったと言っていました。
横浜に小さい放送局を作るという事になり、そこに行ったら物凄く汚かったので、父が部屋の隅々から便所まできれいに掃除をしたら、マッカーサーが大変喜んでマッカーサーに気に入られてマッカーサーとの縁が始まりました。 スタジオが小さすぎて占領軍は気に入らなくて、NHKを接収しようという事でアメリカの大佐の通訳をして、NHKの幹部の人が部屋に閉じこもって会議をしていたらしいんですが、大佐が言った一番すごい言葉が「開けなければ発砲するぞ」という事で、通訳せざるを得ず言ったら顰蹙を買って、「7年間お世話になりました。」と言って直ぐ退職したそうです。 「人と喧嘩をしてはいけないよ、あの時にいい訳を言わずに感謝の気持ちで辞めたから、カムカム放送につながったんだよ。」と言っていました。
辞めた2か月後に、今までと違ったやり方で英会話の放送をしてもらえまいかとNHKから話がありました。 考えてイメージが浮かんで1週間後に快諾しました。 英語を自然に面白く大衆化し、家庭内にも取り入れる実用的な面に応用しうるものにしたいと思ったらしいです。 父は英語教育をしたことは一遍もないんですが、アメリカの小学校生活が役に立ったと思います。 昭和21年2月1日午後6時30分英会話放送がスタートします。 5つの方法を上げていました。 ①勉強とか苦しい努力をしないこと。 ②赤ちゃんが母親の真似をするように私の発音の真似をしなさい。 ③できれば家族とかでこの番組に参加してほしい。 ④習ったことを日常会話で使いなさい。 ⑤完全な英語をしゃべろうとむやみに考え込まないこと。 「証城寺の狸囃子」の童謡を聞いてこれをテーマソングにしたいと思ったそうです。 日本の家庭を題材にしてテキストを作っていました。 テキストにはネイティブの発音に近いカタカナを書いて発音するように工夫していました。 テキストはなかなか手に入らないような状況だったようです。 20万部から或る時には50万部いったそうです。 聴視率は24,5%あったと言われています。
毎日15分の生番組で体調管理とか大変だったようです。 経済界の有名な人々とか、後に「百万人の英語」を担当ことになる五十嵐 新次郎さん、NHKテレビで最初の英語の先生で田崎清忠さんとか父の大ファンです。 ファッション界の芦田 淳さん、歌手のペギー葉山さん等も「カムカムベビー」と言っていました。 「南国土佐」を英訳したのは父で、ペギーさんはそれをアメリカで歌いました。 当時「カムカムクラブ」が1000ぐらいあったそうで交流をはかっていたようです。 「カムカム英語」は9年6か月続きました。(NHKと民放合わせて) ファンレターは50万通以上きて、すべて管理していました。
引退後はテニスをしたり、自宅では英会話を教えたりしていました。 春の叙勲を受けました。 春の園遊会でお言葉を頂いて、硬直して帰りは足がつっちゃってタクシで帰ってきたそうです。 父は本当に優しい人でした。 叱られたという記憶がないです。 「辛いことがあっても新しいページは開くんだよ、良いことだけを考えて居なさい、それが幸福につながるんだよ。」といつも教えてくれていました。 「BeDifferent 」「人と違う事をやりなさい。」という事はしょっちゅう言っていました。 私は大学卒業後、小さな会社に入って自分で貿易部を創設しました。 ウクレレが得意だったので、東南アジアのテレビ局に英語で書いて出演させてもらって、最後にこういうものを売っていますと、宣伝して、10年後には自分の貿易会社を作るまでに発展しました。 今でも英語とウクレレを教えています。 12年前にカーネギーホールでウクレレのソロ演奏をしました。
平成5年91歳でも父は亡くなりました。 「Be Different 」 父がそうだったんだなあと思って、感謝しています。