弓野恵子(アイヌ文化伝承者) ・【人生のみちしるべ】 民族の心・アイヌ語を未来へ
「シマフクロウとサケ」 シマフクロウは昔からアイヌにとっては村をを守ってくれる神として崇められてきました。 カムイユカラ(神謡 「アイヌ」の本来の意味である「人間」にたいして、彼らの身の周りの自然界に存在する実体(生物・無生物を問わず)や現象あるいは精神世界の存在などを遍く「カムイ」としてとらえていたアイヌが伝承してきた、主として身近なカムイとしての動物たちに自ら語らせるというかたちで展開される物語である)にはサケヘという動物の声を真似た繰り返しの言葉が必ず入ります。 この場合はフクロウを真似た「フムフムカト」という繰り返しの言葉で歌っています。
*「シマフクロウとサケ」をアイヌ語で語る。 話: 弓野恵子
「私は村の守り神 シマフクロウのカムイチカブ 山で一人で暮らしていたので、つまらなくなって山をい下り浜へ降りてきました。 木にとまって沖の方を見えていると神の魚サケの群れがやって来ました。 まっさきの昇ってきた先頭のサケは仲間のサケたちにこう告げました。 尊いシマフクロウのカムイチカブがおいでになるぞ。 畏れ慎みなさい。 ところが最後にやってきたサケたちがこういったのです。 一体何のカムイだい。 そんなでっかみ目玉をしたものが畏れおおい神だというのかい。 そのサケたちはしっぽが裂けたものと呼ばれ、神の魚と言われるサケのなかでも一番どん尻の魚でした。 しっぽが裂けたものたちは「あいつは何様だっていうんだ。 どんな神様がいるからって俺たちがおとなしくしなければならないんだい。」と、繰り返し繰り返しいいながら、高く高く尾びれを上げてはばたつかせ、飛び跳ね飛び跳ね テレケテレケ ホリピリピと海に水をまき散らしました。
これにはシマフクロウの私カムイチカブも我慢がならなくなり、懐から銀のひしゃくシロカネピサックを取り出しました。 そして海の水を汲むと海の水の半分がなくなってしまいました。 すると先頭にいたサケがどん尻のサケに向かって怒って言いました。 「このような怒りを私は恐れていたのだ。 シマフクロウのカムイチカブに失礼のないようにと私が告げておいたのに、お前たちは聞こうともせずあのようなことをして、今はもう水が半分も汲まれてしまい我々は仲間共々死にそうに苦しんでいるではないか。」 先頭のサケは苦しそうに呻きました。 シマフクロウのカムイチカブは今度は金のひしゃくコンカネピサックを取り出して、更に海の水をくみ出したのでうみはすっかり干上がってしまいました。 ここに至ってはどんじりのサケたちさえ苦しいうめき声を上げました。 先頭のサケは激しくもがき苦しみ唸り声をあげ、切れ切れにこう言いました。 「神を畏れぬことをしてはならぬとどん尻のサケに告げておいたのに、お前たちは耳を貸さなかった。 だから仲間共々私は死のうとしているのだ。」
それを観てシマフクロウの私カムイチカブは、今さらのように驚き、私が怒りを掻き立てたとて何の良いことがあろうか、と思い直しました。 そして銀のひしゃくシロカネピサックで水を戻すと、海の半分が満ちました。 さらに金のひしゃくコンカネピサックで水を戻すと海は満ち元に戻りました。 すると先頭のサケは、「尊いカムイチカムブよ、怒りを沈めて海の水を満たして下さり私たちは生き返りました。 ありがとうございます。 尊いカムイチカブよ」、と言って喜びつつ静かに去ってゆきました。
それからシマフクロウの私カムイチカブは私の大地、私の山へ帰ることにしました。 そして山に戻ってきた私は、いつものように一人寂しく山で暮らすカムイとなって、このように語っているのです。 「フムフムカト」 「フムフムカト」 これがシマフクロウカムイチカブの語った物語です。」
日本語はアイヌ文化伝承者で古布絵作家の宇梶静江さんが作った絵本「シマフクロウとサケ」を朗読しました。
弓野恵子さんは昭和23年北海道浦河町の生まれ、現在は千葉県在住。 もの心ついたころから暮らしの中にはアイヌ語があり、アイヌ文化、精神世界を大切にする祖母や母親の姿を観て育ってきました。 17歳で仕事をするために上京、その後結婚し、二人のお子さんを育てる間はアイヌに関わる活動はしていませんでしたが、子育てが一段落した50代半ばからアイヌ文化を改めて学び始めます。 特にアイヌ語でのカムイヤカラの習得に励み、アイヌ語弁の歌の大会の口承部門で最優秀賞を受賞するなど、アイヌ語を未来へつなげてゆく活動に尽くしています。
おばあさんがアイヌ語で話していたのを聞いて、意味は判らなかったが、響きがとっても懐かしくて、アイヌ語の響きを何とか、皆さんにも聞いてもらいたいと思っていました。 今まで9つの物語を覚えましたが、忘れないように歌ってゆく努力をしています。 アイヌ語で言っているとなかなかわからないと思います。 今回は機会を頂いて嬉しいなと思っています。 祖母が明治23年生まれ。 北海道浦河町ではアイヌの風習、言葉、料理などがいつまでも残っていました。 明治中頃では刺青が禁止されていましたが、おばあさんは手と口に刺青をしていました。 刺青をした時がすごく痛くて1週間ぐらいは腫れて食べれないような状況だったそうで、色は群青色といった感じでした。 体調が悪くなると色が薄くなったり変わるんです。 ですから健康上のバロメーターになったんじゃないかなと思います。
水は神聖な清めるものなので、ヨモギを水を浸けて振り撒いたしていました。 災いをおさめるような形で水を撒きました。 そういったことが生活の中で風習がいっぱいありました。 中学生になるとアイヌであることに段々恥ずかしいような気がしておばあさんのそばから離れるようになっていきました。 今思うといろいろ話を聞けばよかったと残念に思っています。 山菜を取りに行く時には「獲らせていただきます」、その帰りには「いただきました、有難うございます」、と言ってお祈りをするとか、生活の中からアイヌの生活の大事さが判りました。 アイヌの文化、物語などを知って貰いたいと思うようになりました。 カムイのお陰で私たちがいる、みんな同じ、生きているというのが根っこにあり、それに感動しました。 浦河町地方では「こんにちわ」を「イカターイ」と言います。 「ヒトツ」という地名があり、昔十勝の人との戦があり、その地でおばあさんがダンゴを煮て作っているから待ってという事で、ダンゴのことをアイヌ語で「シト」というんですが、和人が入ってきて地名をつける時に、「ヒトツ」という地名にしたそうです。 人間だけではなく動物、草木もみんな一緒になっているという、それを歌にして踊りにしてというところがアイヌ文化は凄くいいなと思います。
母がよく言っていたのは「赦す」という事で、「シマフクロウとサケ」の物語の中でも「赦す」という事が出て来ます。