鶴澤津賀寿(女流義太夫三味線方) ・人間国宝としての新たな決意
師匠も人間国宝を頂戴しているんですが、師匠の弟子という方の感覚が強いので、私まで(人間国宝に)なっちゃうのかなという気がしました。 竹本駒之助師匠は22歳年上です。 電話で連絡があったのですが、「師匠と相談します。」といって、師匠と電話のやり取りをしたら、「なんですぐ受けなかったの」と言って喜んで大泣きしてくれました。 師匠はエネオス賞を頂いた時にも泣いていました。
親が歌舞伎が好きで小学校の時から連れて行って貰って、大学も歌舞伎の研究しに早稲田にいったんですが、観るだけではなくて批評家に成ろうと思って、「演劇界」という雑誌があって懸賞劇評というのを募集していて、何回か佳作に入って、同人誌で誘ってくれる方がいて、同人誌にも書かせていただくようになりました。 1年間だけ長唄研究会に入って、初めて長唄の三味線をいじったんです。 大学4年間は個人の先生に長唄を習っていました。 卒論は長唄に関するものでした。 三味線の音楽とかからアプローチすれば、ちょっと人と違った批評が書けるかもしれないと思いました。 ほかにもいろいろやりたいと思ってカルチャセンターへ行って日本舞踊、鳴り物教室へ行って、その一つが義太夫教室だったんです。 義太夫教室へ行こうと思ったら募集が終わってしまっていましたが、日本舞踊を習っていた人がたまたま竹本駒之助師匠に習っていました。 師匠の舞台をその人と観に行って感激してしまいました。 教室に入ると同時に師匠に売り込んで、1984年の正月に師匠のところに稽古に行くようになりました。 三味線弾きになりなさいと言われ始めました。
観ている時には義太夫は興味はなかったです。 文楽を観た時に面白なあと思いました。義太夫は男性向けに出来ている芸だから、無理やり女性がやっているわけで、男性より余計振り絞ってやっているわけです。 師匠の舞台を観てとにかく凄いと思いました。 浄瑠璃を始めたら普通の息は出来ないと言われます。 厳しいですが、知っていることは全部教えてくださるような感じです。 駒之助師匠は言いにくいらしくて私にはほとんど怒らないです。 初舞台の後、鶴澤重輝師の預り弟子となって亡くなるまで10年ぐらい稽古しましたが、そこでも怒るという事はほとんどありませんでした。 観て居なさい、聞いていなさいと言う風にして覚えないと、教えてもらうものではないという事をしょっちゅう言っていました。 今になるといろんなことが判りますが。 姿勢というかやり方、三味線弾きは太夫さんのために働くものだから自分が出てはいけない、と教えてくれました。
小さいころからピアノをやっていて音大に行こうかとも思ったんですが、手が小さいし薄いし、迫力のある音が出なくて断念して、最初に義太夫の太竿をいじった時にはすぐ手に血が出て大変な楽器だと思いました。 訓練するとタコが出来てきて大丈夫です。 師匠は晩年は枯れ木のように痩せていましたが、音色とか音量といいも音凄い音をしていました。身体のお加減が悪くても音は変わらなかったです。
大きな舞台でも小さな舞台でもやる事はおんなじなので、あまり気にしないでやっています。 女義太夫の定期公演は協会で毎月1日づつやっていて、若手の公演が毎月1日、2日に上野広小路亭でやらせていただいています。 一生悩んでしまうような職業だと思っています。 百篇の稽古よりも一篇の舞台ですから、兎に角舞台を踏まないとなかなか舞台人らしくなっていあないと思います。 絶対やれないようなものを自分で会を開いてやってみるとか、若い人は大いにやるべきだと思います。
19日に義太夫協会の定期公演で「母の正体」という事で「卅三間堂棟由来 平太郎内の段」と師匠と私で「芦屋道満大内鑑 葛の葉子別れの段」を行います。 これは何十年振りなので勉強してやらせてもらいます。
浄瑠璃は太夫と三味線が一個のものなので、太夫が注意することと、三味線弾きさんが注意することは、結局のところ同じことだたりします。 区別は原則ないと言っていいと思います。 駒之助師匠はいまでも凄く怒ります。 人を怒ることは体力はいるし精神的にも消耗するので、怒ってくれたことには感謝しないといけないと思います。 今の若い人は怒られ馴れていないみたいで、怒られると吃驚しちゃうみたいなところがあるみたいです。 有難いという風にその価値観を思わないと、なかなか芸も良くならないと思います。正座が出来なくてやめてゆく人も結構います。 稽古の時には2時間ぐらい正座をしていないといけないので。 あるお師匠さんは「観るものもの聞くものがお師匠さんやで」、と言われますが、私も普段から機会あれば畑違いのものを観に行くようにしています。 自分の中に貯めて行く様にしています。