2022年9月2日金曜日

あがた森魚(シンガーソングライター)  ・「赤色エレジー」とともに50年

 あがた森魚(シンガーソングライター)  ・「赤色エレジー」とともに50年

1948年(昭和23年)北海道留萌市生まれ。  小学校を青森、中学校を函館で過ごす。   1965年高校2年生 の時にボブ・ディランライクローリングストーン」(Like a Rolling Stone)に衝撃を受け、シンガーソングライターの道を目指します。   1972年「赤色エレジー」でデビュー、50万枚を超えるヒット曲となりました。  又映画監督、俳優としても活動し、1981年から84年にかけて放送されたドラマ「人間模様 夢千代日記」三部作に出演しています。   今年でデビュー50周年を迎えたあがた森魚さんに伺いました。

今年50年なのでいろんなことをやらしていただいて、50年になるが内側にあるものはあまり変わっていないという、そういう50年の感触です。  

*「赤色エレジー」  作詞・編曲:あがた森魚 / 作曲:八洲秀章   歌:あがた森魚

あの時代をこの曲で一緒に送ったんだなあと思うと、贅沢なことをさせてもらったなあという感じです。   1972年当時はフォークブームでした。   皆にエールを送りたいという思いがあり、作ってすぐになんかに似ていると思った時に、「荒城の月」を思い出して、いまはこうだけど頑張って生きて行くぞみたいな、そういった感じです。  21歳の時の作品です。漫画雑誌ガロ』に林静一さんが連載した「赤色エレジー」 青年・一郎と、その恋人・幸子のアニメーターになりたくて夢を追いながら同棲生活を描くものです。  勝手に主題歌を作ってしまったというのがこの歌です。  

1969年12月 URCレコード事務所へ赴き、早川義夫さんらの前で歌い、早川さんに薦められ、1970年1月「IFC前夜祭」で初ステージに立つ事になります。  

大橋巨泉さんの番組にたまたま下駄を履いて出て行ったら、面白がられ、他のテレビ局、NHKさんでも下駄で出てきても構いませんよと言われて、いつの間にか下駄がトレードマークになってしまいました。   歌いたくないと思ったことはないが、ちょっとしばらくはブランクを置きたいと思ったことはあります。   割と自然体で向き合ってきました。  

僕にはボブ・ディランという師匠が居て、もう一人文学者で稲垣足穂という師匠が居まして、この方の世界観が好きで、吉田兼好の「徒然草」のチャプターを引用して「美のはかなさ」を書いたんですが、そのなかに なんか昔これと同じようなことをしているなとかあると思いますが、ふっとそういう気持ちになるのは僕だけだろうか、と吉田兼好は言っている。  その感じを稲垣足穂は持っていて、もっと後の世代もきっと感じることがあると思うんです。   デジャブ(既視感)的な感覚(過去に経験・体験したことのない、初体験事柄であるはずにも関わらず、かつて同じような事を体験したことがあるのような感覚包まれること。「前にどこかで一度これと同じものを見たような気がする」という感覚。)は僕らが永遠に受けつぎ、未来に運んでいくだろうと、その累進は僕らがどう変形させるかによって、未来にもっと美しいものや、もっと僕らが楽しいものとして分かち合えるものに変形できるんじゃないかと、稲垣足穂と「徒然草」から感じたその世界も又僕の次の音楽って何があるだろうと、デジャブが未来のデジャブにどう歌えるだろうかみたいなことが、例えば僕の一つのテキストであろうみたいなところは有ります。

アルバムの数だけでも凄い数出していますが、その原動力というと、いろいろな言い方が出来るけど「欲深さ」ですかね。(笑)  いつも自分のなかに、やり足りていない、もっと今度あれをやろうと、いつもあるというか。  

飛鳥山で僕らは毎月最後の日曜日に稲垣足穂さんにプレゼントする「稲垣足穂ピクニック」というライブみたいなことをやってきます。  自分がやりたいことを分かち合おうという、それは今までも大事だしこれからも大事だと思います。   音楽なり音を出したり自分たちの素朴な感受性を響き合わせるという事をやりたいと思っています。   欲望なり、モチベーションなり、パッッションのようなものがあれば、やろうよって、僕らがいろんなものを分かち合って来た流れは、その中にあるのかなあと思います。  

9月22日に50年の節目のライブをやります。   その日に伝記本も出ます。