2022年9月14日水曜日

関田寛雄(青山学院大学名誉教授)    ・戦没捕虜追悼に思いを込めた28年

 関田寛雄(青山学院大学名誉教授)    ・戦没捕虜追悼に思いを込めた28年

この夏も横浜保土ヶ谷の英連邦墓地で日本で亡くなった英連邦捕虜の眠れる墓前で平和を祈る戦没捕虜追悼礼拝が行われました。   関田さんは戦後50年の1995年に第一回の追悼礼拝をおこない平和への思いを語り続けて来ました。  昭和3年、牧師の子として生まれて関田さんは軍国主義に邁進するも、敗戦で価値観ががらりと変わり、これからどう生きればよいのかと人生の道を捜し続けました。   「そして真実はやがて現れる。」という聖書の言葉に出会い、反戦平和が生きる心の支えとなってきたということです。

関連参考

雨宮剛(名誉教授)       ・我が体験、平和と和解を語り継ぐ(1)(2)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2014/08/blog-post_11.html

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2014/08/2_12.html

追悼礼拝、最後の年になりました。  戦後50年から始めたこの礼拝が、歳のこともあり健康のこともあるので、今年を最後にメッセンジャーは次の実行委員会の方にお任せしようと思いまして、終わりにさせていただきました。   94歳になりました。   8月第一土曜日に追悼礼拝をおこなってきました。   第二次世界大戦の中で、捕虜になった英連邦軍の捕虜の方々1804名の方々がここに眠っているわけですが、無念の思い、望郷の思い、それを思うと胸が痛くなるわけですが、なんとしても追悼礼拝を続けたいという先輩である永瀬隆さんの強い意志がありましたので、礼拝は何としても続けようということで行われています。     

永瀬隆さんは青山学院文学部英語科を卒業した大先輩であり、戦争中彼は健康のこともあり徴兵にはかからなかったが、陸軍通訳に応募しました。  派遣されたのが泰緬鉄道(タイとミャンマーを繋ぐ鉄道でインドに延ばそうとしていた。)で、泰緬鉄道の作業の中で多くの英連邦軍の捕虜の方々が用いられたり、インドネシアの労働者を含めて、突貫工事で進めたわけです。   その間に英連邦軍の捕虜の方々が亡くなって行きました。  その現場にいた永瀬さんにとっては辛い思いをしました。   戦争が終わって、日本軍の捕虜(1000数百人)が、捕虜になるよりは死んだ方が栄誉なんだと、死ぬことを思って一斉蜂起しました。   軍が機関銃で射殺してしまいました。   立派に葬られたという事でした。  永瀬さんは、日本軍は捕虜のために何をしてきたかと、心に刻まれて帰って来ました。  敗戦50年を機に英連合軍の捕虜の方々の追悼礼拝を始めようとしました。

陸軍大臣の東条英機さんが「戦陣訓」という本を出しました。  軍人だけではなく中学校から大学生まで配られている。   そのなかに「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」というものがあり、捕虜となることは恥ずかしいことだし、捕虜に成ったらとんでもない目にあうぞ、という認識が社会の中に広まっていた。 一斉蜂起のことで永瀬さんの心に強く響いたものです。  あの言葉さえなければ、日本人の捕虜は死ぬことがなかったんだと、おっしゃっていました。    日本軍が捕虜を虐待したのはこの文言があったからなんです。   捕虜を虐待するのは当たり前だという発想が日本人にはいきわたっていた。   沖縄の集団自決が起こったのはこのことなんです。 中国大陸でいかに日本軍が捕虜にどんなにひどいことをしてきたのか、そのことを観てきた日本兵が沖縄住民に言ったわけです。  アメリカ軍の捕虜に成ったらどんな酷いことをされるか判らないから、それなら愛する家族の手であの世に送ってやろうというのが、集団自決の動機なんです。  「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」が捕虜虐待の原点です。  追悼礼拝が永瀬さんによってはじめられ、私がメッセンジャーとして28回続いているという事です。

イギリス、オーストラリア、インド、カナダ、ニュージ-ランド、アメリカ、オランダの方たち1800人余りが葬られています。  当時捕虜として日本に連れてこられた人たちは3万5000人以上、日本で亡くなった人が3500人ほどですね。  先ほど説明したオーストラリアのカウラ事件日本軍捕虜脱走事件)で亡くなった日本人のお墓がカウラにあって、立派に葬られていて、それを観て永瀬さんは吃驚して、日本にある英連邦墓地で追悼礼拝をして償いをしようという事でした。   

私が小学校5年生の時に、神社で数人にまれて、お前の親父は教会の牧師だろうと言われ、牧師はアメリカのスパイなんだと、お前キリストを辞めろと言われました。  7歳の時に母が亡くなっていて、イエス様に守っていただくので、お前は洗礼を受けろと言われて、洗礼を受けましたので、厭だと言いました。   その時以来、この国でキリスト教徒であるという事は本当にやばい事なんだと思いました。   軍事教練に一生懸命頑張りました。  アメリカのスパイという汚名から逃れたいと、一生懸命軍国少年を演じました。   その後学徒勤労動員が始まって陸軍の薬品を作ったり医療器械を作る工場に行きました。    雨のように焼夷弾がふってきました。  昭和20年8月7日命令が出てやけどの薬などを運びました。  8月6日の広島の原爆に対する対応でした。    

8月15日は身体を壊していて勤労動員を休んで家にいました。   天皇の玉音放送を聞いて負けたんだろうなと思いました。  がくんときて翌日勤労動員で行きましたが、すっかり雰囲気が変わっていました。   その後学校に戻って、街の整理に動員されました。   道路整備をしている時に人間の死体を何体も掘り起こしました。    学校での勉強は目的がありませんでした。    戦争協力への動員を言っていた先生が、英語の先生となっていて、どうしたことかと思って先生に手紙を書きました。    2週間ぐらいしてから、自分も迷っているとおっしゃいました。    先生は新約聖書の中で、「隠されているもので、現れてこないものはない。  覆われているもので明らかにならないものはない。」とイエスの言葉を言いました。  先生は「イエスの言葉を信じて勉強しようじゃないか」と言いました。   その言葉によって私は救われました。    私は牧師になりましたが、反戦と平和に生きるいう事にしましたが、彼が戦争で死んで僕が生き残った、という負い目がずーっとあるんですね。   広島の原爆記念館に29年目にして初めて行きました。  学校で3人が死んで僕が生き残った。   負い目のあるなかでどこで死ぬか、どのように死ぬか、私の人生のテーマになっています。 

今年の7月17日に亡くなった沖縄の金城重明さん、集団自決の当事者です。  1年下のクラスの子でした。  3月末に米軍が上陸してきた時に、愛する家族の手で送ってやろうと、家族で話し合って、号泣して母と一緒に米軍に夜飛び込んでいった時に手りゅう弾で気を失って気がついてみたら米軍のベッドにいたという事でした。  捕虜になってクリスチャンになって、救いのメッセージが無かったら、俺は戦後生きて居られなかったと言っていました。  

「真の和解とは心からの謝罪の気持ちを具体的な形で表し、若い人にお願いしたい、この墓地を訪れ瞑想してほしい。   これに勝る歴史の教科書はない。   ・・・毎年開かれる追悼礼拝が日本人の良心の証の発信地として、百年後も継続されることを夢見る。」  追悼礼拝の実行委員長の奥津さんは雨宮剛先生のお弟子さんです。  

①戦争犯罪に対して心からお詫びをするという事と、ロシアとウクライナの戦争ですが、90年前に日本がやったことと同じことをやっているわけです。    ②ウクライナを応援することは当然なことですが、日本としてはインド、中国に対して話し合いの場を設けて、平和に対して仲介をするという事は日本の責任ではなかろうかと思います。  ③英連邦戦死者墓地から世界に向かって平和の発信をしてゆく。    歴史を学ぶことによって平和と共生の文化を作ってゆくという営みを持つべきであり、日本の教育の使命であり責任であると思います。

知覧の特攻隊記念館で、天皇陛下万歳というような手記のある中で「眠れ 眠れ 母の胸に」とだけ書いた手記を観ました。  ここに学徒兵の本音があると、涙が出ました。  英連邦戦死者墓地にも同様な家族の文字が刻まれています。   共に助け合い、補い合い、癒し合う、そういう和解の文化を作っていくというのが、これからのすべての国々の使命ではなかろうかと思います。英連邦戦死者墓地を発信の基地にしたいと思っています。  

「男はつらいよ」の寅さんに共感します。  存在そのものが周りを持てなすような明るさ、自由な姿、温かい心、自分自身寂しい思いをしながらも「男はつらいよ」と言いながらさくらに向かっていう寅さんは私にとって懐かしい人間なんです。