小松 みゆき(ベトナム残留日本兵家族会コーディネーター)・ベトナム残留日本兵と その家族を探しつづけて
ベトナム ハノイ在住でベトナム残留日本兵家族会コーディネーターの小松みゆきさん(73歳)のお話です。 第二次世界大戦終結後、ベトナムに進駐していた日本軍は武装解除され日本に引き上げました。 しかし600人以上が帰国せずに残留し、独立のためにフランス軍と戦ったベトミン ベトナム独立同盟からの誘いを受け、軍事教官、兵士、軍医などとして働きました。 彼らは新しいベトナム人と呼ばれ、ベトナム名を名乗り、家庭を持ち、ベトナムに根を下ろして暮らしました。 ところが9年後の1954年フランスとの戦争に勝利すると、ベトナム政府は方針を変え、残留日本兵の日本への帰国を促しました。 この時家族の帯同は許されず、日本とベトナムの国交が途絶えたことで、元日本兵と家族の連絡もほとんど途絶えました。 29年前、ハノイでこの事実を知った小松さんは日本語などの教師の傍ら、家族たちの相談に乗り帰国した元日本兵を捜し、再会を助ける活動を始めました。 その結果、一つの家族の対面と4人の元日本兵の墓参りを実現させました。 これまでの活動について伺いました。
私がベトナムに来たのは1992年です、29年前のことでした。 空港からは田園風景の見られるのどかな雰囲気のところでした。 成長の波に乗ろうと外国語を学ぼうとする人が多くて日本語ブームでした。 最初に受け持ったクラスにソウさんという40歳前後の男性がいて、私の父は日本人ですと言ったんです。 調べて行ったら 第二次世界大戦終結後、ベトナムはフランス軍と独立戦争になって行くんですが、その時にベトナムに身を投じるという事がありました。 彼らのお父さんを捜すことにのめりこんでいきました。 調べてゆくにあたって、まずはベトナムの歴史を知らなければいけないと思いました。
第二次世界大戦末期、ベトナムはフランスの植民地でしたが、日本軍が進駐して支配下において、敗戦によって日本軍は引き上げることになるわけですが、600人以上の日本軍や日本人が残留したといわれています。 明治時代からいた民間人もいました。 1944年(昭和19年)のハノイ日本人会の名簿が見つかり、600人以上が居て軍人だけではなくその中には商社、金融関係、デパートなどの駐在員が沢山いました。 その多くがベトミン ベトナム独立同盟というところから誘いを受けますが、自分達は武器もなくどうやって戦ったらいいのかわからなくて、日本人の手が欲しかったともいわれています。 彼らは新しいベトナム人と呼ばれ、ベトナム名を名乗りベトナム人としてこの地で生きてゆく決意をして、家族をもってベトナムに根を下ろして暮らしました。 9年後の1954年フランスとの戦争に勝利すると、ベトナム政府は方針を変え、残留日本兵の日本への帰国を促しましたが、家族の帯同は許されなかった。 1949年に中国に新しい政府が誕生して、後半の戦争には中国が入ってきているんです。 その時に日本兵が手伝ったという事はまずいということと、ベトナムでも自分たちだけで勝利したとしたかったという事で、日本兵がここに残っていることがまずいという空気が生まれて、穏便に帰っていただこうという事になりました。
べトナム戦争では日本はアメリカの同盟国とみなされ、1954年から1973年までは日本との国交が途絶えて、元日本兵の多くはいろいろな事情で、日本で家庭を持つとか新しい生活を始めるわけです。 ベトナムの家族とはそれっきりになってしまうわけです。 ベトナムに残った子供はいろいろ差別があり大変でした。 ベトナムは父系家族で父親を思い続けます。 母親も子供も父親に会いたいという事で頼み込んできました。
ベトナムの家族は人づてに、それと名簿もありかなり役立ちました。 6人の妻とその家族(孫を入れないで23人)、元日本兵は11人を捜しました。 元日本兵と妻の再会は一組で、親子の対面も一組です。 元日本兵の4人の墓参りが実現しました。 皆が皆、ベトナムの家族との再会を望んだわけではありませんでした。 再開した人にスアンさんという人がいて、2000年ごろに初めてお会いしましたが、 1924年生まれの方で、当時76歳、会った時に「私は春子です。」とすらすらと言いました。 「湖畔の宿」を歌いだすんです。 夫の軍服を抱いて寝てるんだと話してくれました。 終戦の4か月前に知り合ってお互いに惹かれ合ったようです。 彼女が21歳、清水さんが24歳の時に結婚しました。(残留後) 日本兵は単独で帰るように促されたそうです。 1954年9月清水さんは出張に行くと告げたきり帰ってきませんでした。 スアンさんは農業をしながら託児所で働き、貧しさのなか3人の子供を育てました。 1993年になってある人(宮崎功さん?)がスアンさんに清水さんは日本で元気だよと告げたそうで、その話を聞いた時に、私は何とか再会できないものかと思うようになりました。
そのころ小松さんは故郷の新潟で認知症になった母親をハノイに呼んで2人で暮らしていました。 ベトナム国営放送の日本語部門で働いていて、仕事をしながら母親の世話をしていました。 それを「ベトナムの風に吹かれて」という本に書きました。
「ベトナムの風に吹かれて」 本を出版。 松坂慶子さん主演で映画にもなりました。 認知症になった母を新潟から移住させ新生活を始めた。 ベトナム人は家族や高齢者を大切にしますから、みんなが私の母親を親切に扱ってくれました。 母親とはベトナムのいろいろなところへ旅行しました。 スアンさんとも会い、スアンさんとはいたわるような、励まし合うような感じで、仲良しになりました。 言葉は通じないのですが、言葉はいらないなと思いました。 いろいろな交流のことを文章にしてまとめて、2004年の国立民族学博物館の機関誌に載って(3人の妻たちのリポート)、ドキュメンタリー放送をしたいという事でNHKから電話がありました。 日本に戻って、スアンさんの夫の富山県の清水義春さんのお宅を訪問しました。 清水さんは83歳で脳梗塞を患い半身不随でした。 共産国帰りという事で仕事も見つからずいろいろ苦労したようです。 スアンさんに清水家からビデオレターが送られ、スアンさんが清水さんへの愛を語って、清水さんの娘さんの和子さんが父を連れてベトナムへ行きたいという事で、2006年、番組が放送された翌年、一家がお父さんをべトナムに連れてゆきます。(52年振り) スアンさんと3人の子供とその家族、総勢8人と対面しました。 清水さん家族は清水さん夫妻、娘さんの和子さん、和子さんの息子2人の5人でした。 凄く感動的でした。
2016年 在ベトナム大使館の梅田邦夫大使がスアンさんら家族代表25人と面会されました。 2017年3月天皇皇后両陛下とスアンさんら家族代表25人と面会されました。「・・・私が居なくなってもこの友好は続きますように・・・」とスアンさんがハプニングで挨拶されました。 思わずスアンさんを美智子様が抱きしめるんです。 私にも声を掛けられて、母のことについても問われて、感動しました。
2017年10月子供たち14人による日本へ4人の墓参旅行が実現しました。 清水さんの遺骨をスアンさんの一家に分骨して、ハノイ郊外に供養されています。 スアンさんは2018年93歳で亡くなりました。 二人はハノイ郊外の土のなかに一緒に眠っています。
南ベトナムに移動した日本人もいて、彼らがどうやって日本に帰国したのかという事も調べて本にしたいと思っています。
日本にはベトナム人が40万人ぐらいいますが、いろんなことが起きていて、なんでそんな事が起きるのか、お互いの理解が薄いので、そのギャップを埋めるための「文化の変圧器」の役割をしていきたいと思います。