宮崎美子(女優) ・【私のアート交遊録】気が付けばいつも前向き
雑誌の表紙、「篠山紀信が撮る!週刊朝日“キャンパスの春”」に応募した事を機に注目を集め、TBSテレビ小説「元気です」でいきなり主演デビュー、その後数多くの映画やドラマに出演、映画「雨あがる」ほか女優として活躍する傍ら、クイズ番組でもその博識を発揮しています。 毎年新しくチャレンジすることをモットーにしているという宮崎さん、去年デビュー40周年を迎え、写真家篠山紀信さんと新作を制作したり、インターネットの動画サイトで配信を始めたり、さらにこの秋には最新アルバムを発表しているという宮崎美子さん、幼いころは木登りが好きなやんちゃな女の子は、今次々に新しい世界にチャレンジしています。 コロナ禍で自粛生活が続く中でもやりたいことが一杯という宮崎美子さんに表現の世界にかける思いを伺いました。
去年はビキニ姿で、還暦を過ぎた人が落ち着かなく何やっているんだろうという気がするんですが。 去年はデビュー40周年、今年は歌手デビュー40周年です。 9月に新しい作品を発表します。 自身で一曲作詞しました。 普段詩を読んだり書いたりしないので苦労しました。 レコーディングは30数年振りなので大変でした。
コロナ禍で自分の時間が自由に使えることは普段働いているとないから、普段できなかったものをやってみようと、昨年8月にユーチューブを始めて、1年やってきて楽しい遊び場を見つけたなと思いました。 ボルダリング(最低限の道具(シューズとチョーク)で岩や人工の壁面などを登るスポーツ)を始めたりしました。 腕力のなさ、足の弱さを感じています。 月2回のペースでやってきました。 やってみたい気持ちさえあればチャンスは巡って来ると思います。
昭和55年「篠山紀信が撮る!週刊朝日“キャンパスの春”」の表紙のモデルとなる。 新聞広告を見て写真と自己紹介のことを送りました。 大学3年生の冬でしたが、東京に面接に行きました。 その後、テレビCMに出演し、木陰でTシャツとGパンをはにかみながら脱いでビキニ姿になるという内容で、大反響となる。 熊本放送の制作部長を通じてドラマの話があり、自分がドラマに出られる機会はこの先一生ないだろうなと思って、そこで一歩踏み出してしまいました。 TBSテレビのポーラテレビ小説『元気です!』で主演を務め、女優デビューを果たしますが、この先やって行けるのだろうかという不安はありました。 プロダクションに入りましたが、トレンディードラマは似合わないと思っていたし、クイズ番組の司会などをやっていました。 健康的な明るい娘役から大人の女優へ移行しなければいけない時期に来ていて、どうすればいいだろうと判らなくなる時期がありました。 相談しても答えはなかなか出ないうちに、恋愛ドラマの時期をすっ飛ばして、急に結婚して奥さんの役をやるようになり、お母さんの役をやって落ち着いて行きました。 自分の中にないものは出ないんだと思いました。
25歳の時に黒沢明監督とお会いする機会がありました。 映画「乱」の末の方の役が決まりしました。 周りからは宮崎美子でいいんですかとの声があったが、「僕が選んだんだから」と言ってくださって、安堵感とうれしさがありました。 仕事で悩んだことがありましたが篠山紀信さんからは「女優さんほど素敵な仕事はない、いろんなことができる」と言われました。 いろんな人生を味わえますからね、今は面白い仕事だと思います。 デビューして20年目にようやくやって行けるという自信みたいなものが湧いてきました。 「雨あがる」(黒澤は脚本執筆中に骨折して療養生活に入り、完成させることなく亡くなった。 助監督として脚本執筆の手伝いをしていた小泉が黒澤から聞いた構想や残されたノートを参考に補作して完成させたのが、この脚本)に出演できたという事でしょうか。あのような作品に巡り合えたことが幸せでした。 優秀主演女優賞を頂くことができ、自分で女優ですと名乗ってもいいのかなと思いました。
コロナ禍でだらけてしまわないように、時間割を作って、家庭科(調理、裁縫、掃除)、国語(本を読む,漢字)、体育(ラジオ体操、スクワット)など。 厳密にはやっていません、そうすると三日坊主になってしまうので。 クイズ番組に出て、ものを知っているという事はどういうことなのか、考えさせられました。 簡単に調べて判ったような気持になりますが、それは本当に知っていることなのかなあと、本当は自分が見聞きしたことだけが、もしかして知っていることなのかも知れません。
あの人がちょこんといるだけで和むねと言われるような、おばあちゃんが最終系です。 見てくださった人が楽しかったね、じゃあ明日も頑張って行こうと思ってくださるような作品に出続けられればうれしいです。 お薦めの一点としては、ボロディン作曲の「中央アジアの草原にて」です。